『ダイヤモンドブレード』吉原清隆

ある定年を終えた男性が過去の自分を悔いる話。ちなみに「ダイヤモンドブレード」というのは、アスファルトを刻む機械で、きっと誰もが目にするか少なくともその作業音は耳にしたことがあるだろう。単純に男が仕事で使っていたのがそのダイヤモンドブレードということで、従ってこの小説は、これは死語かもしれないが、ガテン系の、土木作業の人の話。
事務職っぽい職の人間が、定年後うまい時間の過ごし方を見つけられず、挙句の果てには年中家にいることで妻をいらいらさせ熟年離婚などというのはありふれるほどあるのだろうが、こういう仕事の人間にとっても、というか、およそどんな仕事だろうと、定年というのは非常に大きな転換たりうるのだろう。つまりは、それはたんに金銭を得るだけのためではなく、あるいは労働力だけを売るものでは単になく、金銭以外の何物かを「仕事」は人に与え、労働力以上の何某かを人は「仕事」に与えている、そういうことではないか。「仕事」というのはあまりに大きいもので、したがってそれと不可分なふうに人はなっていく・・・・・・。
でこれは、この不可分は、仕事と余暇、いまふうに言えばオンとオフが分けられない、ということではない。職業に就いているうえでの斬り切り替えられたオフは、ずっとオフの人のオフとどこかしら違うのではないか、ということだ。そして現役時の延長で、さあ定年、余暇が増えたぞ、あれもこれもと思っていたわりには勝手がどこかずれ、ことごとく失敗する・・・・・・。もちろん、学生時代からの趣味を就職時も定年後も続けるような強固な人もいるだろうから、人によって濃淡はかなりあるだろうが。
ちなみに、仕事が人にとってそういう大きいものであるからには、昨今言われているような、年金支給開始引き上げによる定年延長などは、もってのほかの愚策だろう。若い人たちが社会化(仕事と自分の不可分化)する機会を奪いかねないからだ。
話が少しずれたが、この主人公が悔いる過去の自分は、典型的な放縦なギャンブル親父であって家族の動静に無頓着、息子のことは妻任せという、前世紀の、というか昭和の匂いすらプンプンするもの。そういう意味では目新しさはないが、作家が、己と相似の内省の深い人物を主人公にするようなタイプの小説が多い純文学の世界にあっては、あまり主人公にはなりにくいタイプをもってきたことはひとつのトライである。ずっと前に書いたが、そもそもこういう人物は、内省を主体とする小説とりわけ純文学にはなりにくいのだ。そこをそのまま書こうとしたことにまず敬意を表したい。そして、たとえば犯罪をテーマにしつつ、けっきょく主人公の内省を深くするあまり、現実の事件事故のリアリティにからは全然遠くなっているような小説に比べれば、ずっと成功しているのではないか。たとえ主人公を表現することばが、超短い方言の数々(「みしい」だったっけ?)とか、「左、そのままラインにそって」だったりしかなかったとしても、それらを読ませるために充分な書き方の工夫がなされている。トライをしている。
で何より私にとってとくにこの小説が何より素晴らしい点は、あのアドレスVを登場させたことである。バックミラーなんかをちょっといじって幅を狭くすれば、とくに給排気をいじらなくても一般道最強・最速のこのマシンを! 私など、スカブやマジェなんかは、速いようでいて結局ちょっと渋滞すると車線選択に誤ったりして詰まってるチャラチャラしたバカが多いのでまず簡単に抜かせたりしないが、アドレスとかゲンニ系のバイクに作業着系の服のひとが迫ってたりするとスンマセンって道譲るからなあ。しかも原付しか駐車できないところにしれっと入り込んだりもできるし。一人移動ではとにかく最強。(高速乗れないけどね。)
で、父親というのが、この小説のようにひとつ転機を得たりするとこんなふうな単純さをもって息子に謝りたくなるのかという点はさておいて、それがたんに電車で前に似たひとがすわっていたとかクルマからみた雑踏で見かけたとかではなく、この小説のような「路上の息子」との出会いであったことは妙な説得力がある。電車とか路上のような延長上の風景ではきっと心は動かなかったのだ。定年後のあたらしい風景のなかで、あたらしい乗り物が現れたという相乗があったのだろう。なにか疾走する赤に美しさをも感じたりする。
さきほど定年後のオフをうまく引き継げない云々の話をしたが、こういう新しさにもし出会うことができればいくらかは幸福なのかもしれない。出会おうと思えば遠ざかるようなものかもしれないし、今後現役世代の負担が多くなるにしたがって支給額も医療費負担も消費税も上がる、新しいことをなんて余裕をもてるような人は殆どいない世になるのだろうけれど。まあいくら新しいことをとはいえ、殆どペーパーで路上感覚を持たなかったような人が、定年後いきなりバイクとかクルマなんて実際には至極迷惑なので、ときには巻き込まれるほうの命の問題でもあるので、ぜひ止めるべきであることは言うまでもないが。