『五月、隣人と、隣人たちと』瀬川深

この小説もたんなる偶然だが、私にとっては上記と似たような欠点が目に付く。「論評」「感想」が多いのだ。「出来事」もたしかに書かれてはいて部分的に面白かったりはするが、主人公の内部などより、いま少し細部にわたってここを書いてくれたほうがよほど良いと思う。せっかく、ペットの葬儀だの法要(!)を行おうとする人々という、私に言わせれば格別に奇特な人々を扱っているんだから。それに、「震災」というまさにこれ以上はない出来事の、2、3ヶ月あとの出来事をかいているんだから。
それでも作者から言わせれば、出来事の面白い面はダイジェスト的にではあってもすべて語っているよ、これ以上書いてもつまらない形式的な話しか残っていないよということになるのかもしれない。が、では小説の残りを占める主人公の語りについていえば、例えば震災について語るにしても、どこか構えている感じで直接性を避けた言及が多く、また、頭ひとつ高いところから見ているような気配もあって、言ってしまえば、凡庸なありふれた感想のわりには、思ったほど共感させられるところが少ない。思ったより少ないというだけで、まったく共感するところがないというわけではないのだが・・・・・・。
ひとつたとえば挙げるなら、主人公にたいしてそれまでまったく無愛想にしか見えなかった人間が、あの震災のとき人が変わったようにいろいろ語ってくれたなどというエピソードなどは、ああたしかにそういうことはあったかもしれないな、こんなふうにいきなり「繋がり」が現前するという驚きはあったかもしれないな、という共感はあるものの、なにかそのことを俯瞰したところから、好ましいものであるかのように語るのにはあまり共感できない。これじゃまるで災禍を待っていたみたいじゃないか、とは、そこまでは言わないが。
まあこれも、僧侶という、もとから俯瞰したところにいるひとの習いなのだと言われればそれまでなのだが、だとしたら小説からは遠いなとも思う。