『金子光晴流サバイバル術 第3回 東京で学ぶ〈超貧乏〉の極意』鈴村和成+野村喜和夫

なんとなく流し読みしていただけなので、中心的な趣旨というか全体を通したところへの物言いはしないでおくが、ちょっとヘンなのが目についたので。
なんかTVは電力を使う最大手だから、TVが節電を呼びかけるんじゃなくてTV放送そのものをカットしたらいいんじゃないか、てなことをここで言っているんだけど、こういう震災後のあたふたしたときにこそ、TVの低俗性への批判を裏に隠し持ちつつもっともらしい言い方で規制を呼び込むようなことを言うのは、いちばん避けるべきことだろう。TVが電力を最も消費するというのも根拠に乏しい。みんなして散歩にでかけたり家族団らんしたほうが部屋にこもってTV見るより、よほど様々な消費が増えるとしか私には思えないけれど。読書つったって、紙作る電力は相当だよ。電波飛ばすのと違って物理エネルギーではないか。
人心が混乱しているときにどさくさまぎれに重要なことを決めるべきじゃないし、TVを消せば娯楽が戻るみたいな「道徳」もこんなときだからこそ導入すべきではない。そういうのは、平時に人心が安定しているとき、それぞれが決めればいいだけの話だ。
これはもう過ぎ去ったことではあるけれど、実際、震災後そういう感情的なテレビ批判はけっこうあって、なかには民放なんかどうせ同じこと流しているんだから5つも6つも局も必要ないみたいなことまで言われてたりしたのだ。TVのふだんのあり方まで理由に絡めるという非常にいやらしい、汚いそういった言説は、いまもネットのログには残っている。集英社だって、速報性のあるメディアはないかもしれないけど、メディアの一員なんだから、あまりへんな事書かないように。「生活」の重要性を理由にしてメディアを消し去ろうとするのはまさしく全体主義的だよ。まあ全体主義なんてのは、たいてい下のほうから、「民衆」や「生活」のほうからやってくるんだけれどね。近代にとってはメディアもそうは見えないけど生活なんだから。
それにしても、大都市圏に住んでいる人にとっちゃ民放は多いって話になるんだろうけれど、まさしくそういう地方への想像力の足りなさこそが原発問題なんだよなあ。福島で最初に水素爆発が起こったとき、なんと官邸でもそれが把握できたのは、ひとつの地方民放がずーっと定点で原発を撮っていたからなのだ。NHKじゃないよ。