『文學界』 2011.10 読切作品

むかし山手通りを自転車で走っていて、外国人の方に目黒駅はどこかと問われ、つい目と鼻の先にある中目黒の駅を教えてしまったことを未だに覚えています。


べつに悪気があったわけではないんですけど、坂の上にちゃんと目黒駅があることは知っていてそのあとすぐに思い出しました。ただちに役に立ちたい+外国人ということで、きっと瞬間脳がからっぽに近い状態だったのでしょう。
それにしても以前からこのブログでも自転車増えた増えた言ってきましたが、土日はほんとうに多いですね。震災後ますます増えました。私は移動はほとんどバイクなのでクルマほど彼らを邪魔に思いませんが、環8みたいな三車線ギリギリに作られている極悪設計の道路で自転車がいて、せっかく追い越したのに信号で再び前に出られる車のドライバーは忍耐強いなあと思います。
一方で自転車乗りの人たちがすごいなあと思うのは、みんなちゃんとヘルかぶっている事ですね。切符切られるわけでもないのにヘルかぶる心がけは立派としかいいようがないです。もうかなり前の話ですが、私はフルカーボンロードで原付と同じくらいの速度で走っていたときもヘルメットをかぶったことなかったですから。そもそも、もっていなかったですし。
ただしあの、股間もっこりするので女性にとっては不評だったり好評だったりするサイクリングパンツは持っていました。べつに格好よいとか悪いとかの話ではなくて、自転車乗らない人は知らないかもしれませんが、あのてのパンツの多くにはケツから股にかけてちゃんとパッドが入っていて、それがないとロードのサドルなんか長いこと乗っていられないのです。


古内東子さんについて書いたとき忘れていたのですが、彼女の詞の世界の、恐ろしいまでの俗物ぶりがまったく気にならないかといえば、じつはそんな事はありません。それでも聴き続けるのに抵抗というほどではなくて、つまりはああいう詞の世界でも受け入れさせてしまうくらい、メロディ作りの上手さやボーカルアレンジが素晴らしいと、単純に言ってしまえばそういうことなのですが、じつは最近は、あの詞の世界もいぜんよりずっと受け入れられるのです。新しい理由によって。
なんかもう二度と帰ってこない近代の絶頂期がここにはあるなあ、そんなふうに感じるのです。さいきんの人はこんな言葉知らないのかもしれませんがアフターファイブを楽しげに過ごせるような時代感覚、ちょっぴりカネの匂いのする世界が彼女の歌にはあって、なんか妙に懐かしいのです。切手貼りとか書類のワープロ清書、コピーホチキスだけのために人を雇えた時代があったという・・・・・・。