『百年の憂鬱』伏見憲明

おそらく作者自身にかぎりなく近い中年の同性愛男性と、西洋人の血が入ったルックスの良い美少年とが付き合いやがて別れるはなし。
若い美しい男性が、醜男とすら形容してもよいかもしれない中年男性と付き合うというのは、いっけんあまりなさそうで、しかし作者も書いている通りこの世界ではわりとよくあるありふれた話で、読者が同性愛に詳しい人ばかりであったならば小説にはならなかったかもしれない。
それがここまでの大部となってしまっているのは、どこに要因があるかというと、その恋愛をめぐる講釈というか一般論的な作者の論評めいたもの(いわく恋というものは〜とか、若さというものは〜とか)が何か起こるたびほぼもれなくついてくるからで、これがわりと鬱陶しい。百年の憂鬱とあるが、憂鬱になってしまうのは読者のほうかもしれない。
だから描くのは思い切って出来事だけにしてほしかったとも思ったりするが、恋愛というのはつねに他者の欲望にその源泉をもつものであり、相思相愛ではなくむしろ三角関係こそがその基本形なのだとはあちこちで喝破されているとおり(他者が欲しく思う対象にひとはより強く欲望をもつ)、一般的なものを措定してそこから引いてきて己の置かれたところと絶えず比べるというのも、恋愛の基本的なありかたである。婦女子のごとく恋愛にかんして熱心なゲイにとっては、こういう語りはむしろ普通であって、だから作者にとっては、「恋というものは」と、恋愛にかんしての「真理」をあれこれ語ることこそ必須なのだろう。
そういう必須とか当たり前、当然と考えれれているところからの逸脱にこそ文学の面白さがあると考える私のようなものにとっては、だから、ラスト近くになって、それまで物分りの良かった主人公が、自らの依拠する考え、一般論から転げ落ち、感情のままに突き進むところなどに面白さの萌芽があって、ここを読んだときは(やっとらしくなったか)とも感じたが、そのほころびも一瞬でしか残念ながらない。
大部になったもうひとつの要素として、戦後すぐにゲイバーのルーツとも言える店を作った老人のエピソードなどもあるのだが、つまらないとまでは言わないものの、これも思ったほど面白くない。