『パトロネ』藤野可織

私が読んでいる限りにおいてはずっと非リアリズムを書いてきて、しかし以前は確か恐竜だとか悪魔みたいなものとか出てきたことを思えば、この作家ずいぶんと洗練されてきたなあ、と一読して思う。分かりやすいというか大胆というか乱暴というかそういう非リアリズムから、じょじょに日常と紙一重のところへ寄ってきていて、わたし的には歓迎である。
ただし一歩ひいてこの作品をみると、もしかしたら世間的には、この洗練はまた、小さくまとまってしまった事とも紙一重というふうにみられるのかもしれない。「小さく」というのはつまり予想をうらぎるような部分が少ないということであるが、どうじに、また、作品に描かれた世界の小ささも気になったりもする。たとえば皮膚病の詳細やカメラについての専門用語が出てきたりもするが、かといって何か違う世界への扉がそこにあるような予感は殆どない。
もちろん「閉塞感」と手っ取り早く表現されるいまの時代の空気を、うまく切り取ってみせることは小説のひとつの見せ場ではある。最初から閉塞しまくっているともいうえるこの主人公の閉じこもりぶりは、非リアリズムを非常に効果的に使うことによって、じつにうまく表現されている。冗舌な皮膚科医と、一切寡黙な妹と、その双方との主人公のディスコミュニケーションを見よ、と思う。これはまさにわれわれを取り巻く状況ではないか。たとえば、なかなか自分なんてものを肯定させてくれない、たえず自己嫌悪へと追いやる今の世の中は、むしろ自分の血の濃い身内にたいしてこそ、ときに拒絶をもたらしてはいないか?
そういう意味ではたぶん、だからこの小説はぜんぜん合格、これはこれでいいのだ。そこで、だがしかしと思ってしまう私のこの作家への期待が少しばかり高くなってしまったのが、悪いのだろう。
ただここであえて「だがしかし」の後を続けさせてもらうならば、後半主人公が、年齢が離れているだけで己と相似である人物に出会うことで、少しづつ開けていきそうな感じにはなってはいるものの、すこしばかり弱いかなあ、と思うのだ。たしかにある種の病的な精神が、転移が起こったかのように己に相似なものと出会うことでとれてしまうようなケースはある。そういういみで、作者の人間観察のまっとうさはきちんと発揮されてはいるのだが、しかし、もう少し突き抜けるようなものが欲しかったりもするのだ。
かといって、石田千の近作みたいな嘘くさい突き抜けられ方を見せられても私などは困ってしまうのだが、それでもああいった作品が芥川賞の候補になってしまうことについては、それなりに否定できない部分もあると思うのだ。