『“フクシマ”あるいは被災した時間(二)―追悼と確率』斎藤環

趣旨である抽象的議論のその根幹については、文句をいう気は殆ど無い。というか、理解できてないかもしれないし、理解する気もあまりないから。
気になったのは、その議論の説得性を高めるために、どぎつい資料ばかりを引いているかのように見える点だ。まるでこれじゃ私の評論はカタストロフィを必要としていますといってるみたいじゃないか。本末転倒。この資料が本当かどうかは留保するとかエクスキューズを何度も入れているが、そんなことするなら原稿そのものを留保すればいいのに。
とくに終盤がひどい。筆者は5月に海外で報じられた「福島県の」(土壌だか空間だか知らないがこのふたつでもずいぶんと違う話になる)数字に着目し、ついで文部科学省の作成した「福島県の」放射能汚染地図をみて直観したりするのだが、なぜ福島県だけしか見ないのだろう?これ、10月あたま発売の11月号だぜ。
その後関東のみならず東北や北陸をふくめた土壌あるいは空間汚染地図はきちんと発表され、そこでわれわれは、同じ福島県とはいえどもラーメンで有名な喜多方とか白虎隊の会津あたりは、茨城や北関東、千葉の北部とそれほど大差の無い汚染しかされていないことは十分認知したはず。同じ「福島」というだけで、西部地域まで運送者の配達などが拒否され旅館の予約はキャンセルされたりしたのも記憶に新しいなか、いまさらこんな議論はないだろう。情けなくて胸をかきむしられる。
ただでさえ今も同じ「福島」というだけで、汚染マップを詳細に見ようとしないのか知らないが、観光は遠慮され、生産物が忌避されという差別は継続している。そういう状況だからこそ、それに対応するものとして県知事もすべて同一視し"安全宣言"とかしちゃうわけだが、先日基準値超えた米が見つかったりもして、つまりは、福島をすべて同一視することはかえって危険ですらあるのだ。
大衆(の一部)が「福島」を差別的記号として扱っているときに、知識人までそれに乗っかるって・・・・・・。日本をよく知らない海外メディアが「フクシマ」「フクシマ」というのはある程度は仕方ないが、事情をよく知るはずの同じ国の人間までがそれに抗さないって。いやはや。