『楽器』滝口悠生

読み始めてしばらくは、最近の新潮の新人賞はなかなか読ませるね、と思ったりもしたけど、よく考えてみれば前回の新人賞がとくに良かっただけで、更によく思い出してみれば、ちょっと前までは福田和也が編集の人のボヤキとして候補作を揃えるだけでも大変・・・と伝える・・・そんな状態ではなかったか。
なんか「新潮」が立て続けに芥川賞に絡んだりしたので、新人賞自体にも底上げムードみたいのをいつのまにか持ってしまっていたんだろうか。芥川賞に立て続けに絡んだのが単なる偶然でもないと思う向きが多ければ、ここでみてもらいたいという意味で新人賞も集まるというのは、ありえる話ではあるけど。数が集まれば良いものも多少は増えるだろう。
この小説、話は男ふたり女ふたりの計4人が駅のそばの住宅街をあってないかのような目的で歩き、一風変わった庭にたどり着くところから始まる。
というのは、最後の「ところから始まる」については嘘だ。エンタメ系とか普通の、星野智幸ふうにいえば読みもの的物語ではここから始まるのだろうけれど。早い話男女4人が他人の庭に行くだけだ。
たったこれだけの何てことは無い話をあーだこうだと最後まで読ませてしまうというのが、まずすごいと思う。
とくに同じ学校の同窓であるとかそういう背景のないこの4人が、この駅のここにたどり着くまでが面白い。平板に整理すれば誰と誰がこうして知り合って、その後この人がで、数行で終わるだけなのだが、読者を引っ張るエピソードを交えつつ、徐々に彼らの関係を明かしていくこのやり方は、読むという事自体の楽しみ、面白みに作者が十分に自覚的なことを示している。読みながら我々読者も書いている、といったら明らかに言いすぎだが、それにしても、ある程度組み立てながら読むことを求められる所があり、小説に参加しているかのような気分にもなる。といったらこれもやや大げさなんだが。彼らがこうして行動するきっかけとなった発言をした女性がもうその場にいないという皮肉さもいいし、この駅が秋津という、これまたこれといった特徴の恐ろしくない場所であるところもセンスを感じる。
ただこの4人が知り合う過程が面白くなっているのは、全てがそうともいえないが、それぞれが一風変わった人物であるからこその所があって、こういうところにスノッブというか鼻につく感じを抱いてしまうと評価は下がるかもしれない。
私は、それほどそういう感じを抱かなかったのだが、もっと詳しくいうと、ある人物の「芸術作品」に関しては確かにそういう先端らしさを気取っていながらすごく詰まらなそうと思えるものもあったし、一方では「全てが絵画である」というへ理屈的なところなどは、よくこんななさそうなことをさもありそうに書けるなと妙に感心してみたりと、プラスありマイナスありと言ったところだった。このへんが、いつもギターを抱えている男のマンガ的な軽さとともに、私がこの小説を最上評価しない理由のひとつではあると思う。良いふうに考えればこのギター男の谷島という人物に関しては内面描写が殆どされていないから、苗字がはっきりしているわりにはどうでも良い人物なのかもしれないし、この人の軽さ、バカくささで、女性二人にかんじるかもしれない芸術くささが和らぐということもあるかもしれないが。「私」という人物がサイケバンドをやっていて、それがいつの間にかコーラスみたいなものに変わっていたとかにしても、アホらしくてこれじゃ鼻につきようがない。
マイナスの面に話が流れたのでついでにいっておくと、女性二人が二人とも一風変わっていて、しかも年齢差もそれほどありそうもないので、読んでいて途中でどちらがどちらだか混乱しそうになるのだが、ここは読者が組み立てで補う箇所として積極的に考える気にはならなかったのだが、これも計算なんだろうか。よく分からない。
あと、記憶と現実を入れ替える記述(〜かとそのときは思っていたが、じつは違うのかも知れない。あるいは○○がそう考えているだけで、そんな事はなかったのかもしれない、とか)がやたら出てくるのも、この小説の大きな特徴だけに否定するものもどうかと思うが、ややうんざりさせるところがあった。この小説の世界の訳の分からなさを支える箇所だけに惜しい気がする。あまりにも多く出てきて、却ってそれが決まりごとのような感じにもなってしまっているかのよう。
こういう言い方をするのは、この小説の魅力のひとつは自由さ、話がどこへいくのか予想の出来なさにあると考えているから。最初私が一人称視点で語る小説かと思っていたらぜんぜんそんなことは無かったし、小説の前半にほのめかされる出来事の前に小説が終わってみたり。文体も、神視点で単調になったりもせず、突然地の文に思いや実際の発言が混ざりだしたり。かといって支離滅裂とか混乱という印象を与えずにまとまって世界を築いている。
世界を築いているということでいうと、さきほど「目に見えるもの全てが絵画」のところで、こんな無さそうなことをさもありそうなこととして、と書いたが、この小説、一方で抑制された文章で4人の関係を語りだし、しっかりとした構成力と叙述力だなと思わせつつも、小説後半で生じているあれこれの音の数々とか、一家の主人が庭を見なくても庭の状態がわかるとか、よくよく考えると無さそうなことばかりで、こういうものをしっかり小説で文章で回収して、説得力を持たせられるかが作者の力の見せ所なのだろう。退屈させる箇所が皆無とはいえずともそれは十分成功しているように思う。
だから最後にあえておたまに菜箸で鳴る音がカーンであってもある意味良いのだ。川上未映子がそんな音はしないといっていたが。ただし、あえて終わりだけ現実のありそうな音で締めくくった方が小説としてよいという判断は当然ありうる。
この人の、芸術家とか変わり者が出てこない小説を読んでみたい。技術はしっかりしていて、センスもあると思うので。