『新潮』 2011.11 新人賞ほか読切作品など

9頭立ての少頭数のレースで、8着と9着の馬のワイドを買っていたりすると人間やめたくなりますね。


最近そうでなくても馬連で買えば1着3着とか、ワイドにすれば今度は1着4着とか、神さまに完全に見放された感があって、そんなこんなで何かに八つ当たりしたくなるってわけでもないのですが、最近横浜市が断念した汚染焼却灰の埋め立てに関するニュースには疑問を覚えました。川崎市が以前福島のガレキを焼こうとしたときに抗議が殺到したときと同じですね。たとえ安全と言われても横浜の湾のなかにあることじたいに反対だ、とか。
あーまさしくこういうメンタリティが原発を首都圏から追いやって、地方に押し付けて、自分たちの問題としてこなかったということの根本にあるんだな、と。原発事故の遠い遠い要因として。
もちろん震災のとき痛感したことですが物流というのはすごく大事だし、港で働く人にとっても、何かあったらと思ってしまうのは仕方ないでしょうけど。
本当は東京電力がいま汚染水保管するためにせっせと作っている施設みたいなものがあればいいんですが、たんに埋め立てるのではなくてそれなりのものを作るとなれば相当なお金がかかって、で東電が悪いんだから東電が出せばいいでしょとなったとしても、結局は半国営になりかかっている東電の金なんてある意味我々の懐というわけで。東電に押し付けるということは、電気料金への反映だったり、あるいは国が融資するにしても税金ですから。
自分たちの懐で作るならば、一つや二つお台場かみなとみらいかなんかにモニュメント的な最終処分箱でも作って、毎日京浜東北線ゆりかもめから見られるようにしたらいいのにな、と。たんなる埋め立てと違って箱に詰めてしまえば、海にも風にも流されないし(いや実際は埋め立てでも海や風の危険なんて無いんですが)、炉と違って灰が何かに反応して爆発するわけでもないんだから、これなら反対する人はいないでしょ。こんなの、いまさらですが。
じっさいには、用地の費用の問題とか一括で管理することを考えたら、こういう汚染物の最終処分の場所は福島にっていう方向になってしまってますし、実際そうなるんでしょうけど、道義的には東電管内で生じた汚染物くらいはせめてそれぞれの場所で保管すべきと夢想しちゃいます。


あ、あと過激な反原発の人で「棄民政策」がどうのこうの言ってるのもときどき見かけますが、これも馬鹿げた発想ですね。厚生省を中心にあーだこうだと国民の健康の為に様々な規制や健康促進策を推し進め、なかんずくとくにタバコの値段をガバっと上げた民主党が政権を担当しているんですから棄民政策なんてする筈がない。まあ自民党なら国を愛さない人は死んでも良いとか一部の人は言いそうですけどね。「健康」は現代でもっとも支配的なイデオロギーのひとつで、その民のもとに政府がある限りそれに反する政策をとる事なんてまずありえません。