]『最後に誉めるもの』川崎徹

放っておけば誰も気づかないかたちでスマートに淘汰されるのに、公園にて無責任に野良猫に餌を与え、結果として生まれた子供を全て自分で引き取るわけでもなければ、生じた糞害や音害も野放しのクセに、自分の尺度で問題なければ問題ないと言わんばかりに、猫で困っている人への想定問答まで用意するような、私からすれば極悪人を過去に小説で描いて、しかもそれが作者と重なる可能性が高い分、ここの評価が厳しくなるのは仕方ないのである。
しかし今作は、正直読んでいて無闇とつまらないと思うことは少なかったと告白する。上記のようなことを差し引いてもこれだから、より素直な人のこの作品への評価はより高いかもしれない。
ともあれ、簡単にいうなら過去のこの作家の作品のような平凡なリアリズムからは一歩踏み込んでいることに特徴がある。死んだ母親と会話をしてしまうのだ。が、いかにも純文学にありがちなやれやれ感もなく、ああこういう主人公ならばこういう声が聞こえても仕方ないかなというような説得力がきちんとあるし、会話の内容もまあまあ面白い。「死ぬと好みが変わるの」とか。こういうと一世を風靡したひとに上から目線な言い方になってアレだが、いつのまにずいぶんと小説上手くなっているかのような。
会話の内容が面白いと書いたが、それにも増して過去の父親の変わり者ぶりや、大学の授業などのエピソードも面白く読めた。
ただ全面的にこの小説を「誉める」気には私がならないのは、大学での過去の記憶に向き合う授業からやたらと自分の家族の記憶を語ってしまうその心情には、共感するところがどうしても少ないからである。そこへの話の移行じたいは、繰り返しになるがスムーズで説得力があって悪くないんだけど。
私がよほど薄情なのだろうから一般化してはまずいと思いつつ、自分の家族がなぜ特別なのかがいまもってピンとこない私のようなモノを揺り動かすまでの説得力は、この小説にあるかどうかはやはり疑問と言わざるをえない。それに、朝日新聞に連載されていた孤族の国で紹介された数々のエピソードの衝撃からくらべれば、こういう小説は、もはや反時代的な趣味的な領域のものとしてしか存在意義はない、とも言わざるをえない。もちろんそれだって、十分な意義だから何も文句はない。村落共同体が崩壊したあとに家族=国家と手を携えて出現した近代文学というのは、こういうものだろう。
ただ、遠く離れた地で自分の血の繋がった兄弟が軽自動車のなかで小銭しかない状態で死んでいて、それを知らされてもその遺体の処理にまったく行く気もしない人の生き様(「もう縁がありませんから」とだけ言って取材が終わったかのようになっている)にこそ、なにか共感とはいかないまでも繋がりを、意識の繋がりをかすかにでも感じるし、やがてここへと繋がるような文学がもしあればと私は思うのだ。