『ここで、ここで』柴崎友香

評価が併載されている作品に左右されてしまうところがあるのかなと思うが、今まで、複数の人間が和気あいあいとしている情景を描くことが多かったという、主にその理由で嫌っていたのだが、近作はそういう抵抗感は少なかった。
関東でいえばレインボーブリッジみたいな高架上で立ち往生してしまった人の体験を書いた話なのだが、こういう夢と現実の境目にあるかのような情景の選び方や描き方については相変わらず上手いと認めざるをえない。不思議と記憶に残るのだ。誉めておきながら記憶に残らない作品もあることを思えばこれは、何某かの力だろう。
現代の小説を「いま、ここ」を疑うものと定義するなら、柴崎作品のこういうところについては、そのど真ん中にある作品と言ってよいだろう。おおげさに「日常」までをも異化せずに、異化しやすい所を選んでいるのが無理がなくてよいともいえるし、素直にこれまで過去になかったような光景を選んでいる傾向も特徴かもしれない。下町の古い町並みとかそういうのではなく、都市の、われわれがたんに新しさとして受容しているものを、人々の歴史的に未経験な驚きのひとつとして書く。この小説では、無闇と安いが作りはやっぱ微妙でこれだったらカインズやニトリ、も少し金があれば無印がいいからみんな物珍しさで買っているのかなという、なんで家具屋のくせにサーモンパテやポテチとか売っているのかイマイチ分からないイケアも出てくる。((けっこう前の話なので今も食品売っているか知らない。)
もうひとつの特徴は、彼女の作品のなかでこういう体験をする人物がそれをモノローグのままにしない、ということ。作品中で誰かにそれを話し、体験を共有しようとする。ふつうはそれは小説の外で行われるものだ。主人公の思いは主人公のなかのままにおかれてもそれは読者が共有する。そういう今までの小説に、なにか閉じた感じを抱いたのかあるいはたんに飽き足らないのか、それともたまたまそういうことになっているのか分からないが、面白い特徴ではあると思う。しかも、主人公−読者のあいだで行われる共有は二者間のものであり、柴崎の小説内で行われる多数間の共有とは力学が異なるわけだから、なにか異なるものが出てくるかもしれない。
映画やコンサートのような共有を小説の場に持ち込むということは、小説のらしさからは離れていくのでこれが一般的になるとも思えないし、これはこれであっていいが、ひとつ危惧するのは、この共有が、安易な共感と隣り合わせにあるということだ。安易な共感は小説が目指すものと対極にあると思う。