『"フクシマ"、あるいは被災した時間』斎藤環

上記のようなものもあればこういうのもあるんだなあ。
やれ猪子寿之だ、ダヴィンチだ、ハイデガーの弟子だ、デゥピュイだと思想家芸術家の名前が挙げられ、ウンザリさせられること請け合い。まるで自らがいかに現代思想に通じているかを誇示するがために「フクシマ」をネタにしているかのような光景だ。たぶん、そんな良心に欠けるような人ではないんだろうけどね実際は。こういうのをみると、大澤真幸からの孫引きだけど、浅田彰原発を否定するのに哲学的に難しいことなど何一つないというのを名言だと思う。(って、私も浅田彰のことを引き合いにだしているね!)
それにしても「システム的な悪」とか、さももっともらしい事書いているけど、水力発電だろうが火力発電だろうが、次に期待したい再生可能エネルギーだろうが、「システム」には違いないだろう。(余計なことだが、もっといえば、次世代のエネルギーはより科学的な洗練が必要となるだろう。)
で何だ、「システム」には誰かさんによれば本質的に悪が備わっているらしく(ということは水力にも火力にも「悪」があるわけだ)、「システム」そのものを廃滅をしない限り破局を完全に防ぐ手立てはないらしい。システムそのものの廃滅だってさ。原発以外の破局のない、あるいは少ないシステムはどうするんだろうね?システムの外側に出よとか最後のほうで言ってるけど、「システム」なんて大げさな言い方をせずに分かりやすくいえば原発だけの話だよね。
こんなの破局度合いとのバランスでやるしかないやん。たとえば、地震の少ない国が原子力を引き受けてくれているせいで、温暖化がどれほど遅らせることが出来ているか、っていうような。