『お神さん』太田靖久

新潮新人賞ではそれだけで終わらず二作目が載るだけでもなかなかすごい事なので、歓迎したい気持ちもあるが、そういう事情を知らずはじめてこれを読んだ人にとってはどうなんだろうとも思ったりする。文章も悪くないし展開もよく考えられているようにみえるのに、いったいどこが悪いんだろう、ひとつも面白くないのだ。(いやひとつもは言い過ぎかな、冒頭でフったロックミュージシャンの話が、暫く経って「ザッパ」としてここで出てくるのか、みたいな面白さはあった。)
というか最後まで読んでまず思うのは、いったい何が書いてあったんだろうということだ。そんなだから、たぶん、という事を頭につけてしか私にはいえないが、何が書いてあったのかが残らない原因は、分かりやすい粗筋がないからとかそういう事ではなく、焦点が絞りきれていないのではないか。
仕方ないので小説の読めない私などより編集部員の方々のほうがよほど的確だろうと、新潮の紹介文の助けを借りると"死後の労働と引き換えの基本所得が約束された世界で、人は誰を愛し、何を祈るのか?"というのが、この小説の内容を端的に表しているらしい。
そうなのか・・・・・・。しかし「愛」への希求も「祈り」の荘厳さも感じなかったなあ。だいいちそれを表している(たぶん)であろう、若い女性と「神さん」とのカイロだのマッチ箱だののやりとりもいまいち分かり辛い。
祈りといえば、神さまへの手紙を投函したりするのだが、こういう行動のどれかひとつにスポットを浴びせて書けばいいと思うのだが、いろんな事を盛り込んで、それぞれがつまみ食いのまま散らかっている感じだ。例えば、川原の焚き火をめぐるやり取りとか、電車のストをめぐるやり取りでは、じつに醜い「市民」が描かれたりして、現代ではそれだけでも十分主題になりそうなのに、しない。たぶん、って、また多分と書いてしまったが、中心のテーマであろう労働をめぐる問題でも、単純労働のきつさや、労働契約の非情さも描かれているのに、それぞれ突き詰められていない。
小説の、そういう技術的側面は措くとしても、じっさいいま労働を扱うのであれば、こういう描き方はどうなのというのも、ある。契約労働にしても単純労働にしても、一昔前のようにバカみたいに肉体的に耐えられないというのではなく、なんとなく続けられたりもするというレベルの「気遣い」がむしろこの社会には張り巡らされていて、ふと立ち止まって深く考えるとその未来の無さに暗澹としたりするものの、立ち止まらなければ続いてしまうというところに恐ろしさがありはしないか。知らず気づかずぼんやりやり過ごしてふと鏡を見たら白髪の目立つ中年が鏡のなかに居て、というところにこそ。
おそらく著者はいろんな所に「何か」を感じてしまう感受性の高い人なのだろうと思う。と好意的に書いておくのは、いままでベーシックインカムなんて言葉を小説で見た覚えがなかったくらいであって、その意欲は買いたいから。
ただその意欲が文学に向けたものであることは確実としても、ほんとうに弱い人のことは視野にあるのかという点では不安だ。何しろ、念のためいっておくと、そのベーシックインカムに関しても余り突き詰められてはいない。いま世間で議論されているそれからして、生活保護のように人々を分断化するような烙印的なものではないように思うし。むしろ弱っている人へ意欲を持つならば、今現在むかしと違うようなタイプの受給がなされている生活保護の実態が取り込まれているだろう。
ところで会話が全くリアリズムを欠いた大げさな「文学的やりとり」になっているのは、たとえば「神さん」が派遣元の人と話すシーンなどではこれもこの作家の面白みなのかな、と許容できるものの、中盤から後半の若い二人の会話などではウンザリせざるをえなかった事をつけくわえておく。
いまこの作品を思い出しつつ端的に言い表すとすれば「あさってとも分からぬ場所でひとり相撲的にもがくある若者の肖像」て感じかなあ。