『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子

いちど言及したものにたいして再言及するのは今までにないことだが、ちょっと特別に。(ちなみにネタバレあり。)
というのは、読んでしばらく経つのに未だにこの小説について考えることがあるという事なのだが、前作『ヘヴン』に共通することで、ひとつ素晴らしいなと思ったことで書いていないことがあった。それは、終盤になって主人公に、逃げ道というかもうひとつの世界というか、別の側面というか、そういうものを用意してあげていることだ。『ヘヴン』では「母親」との新しい信頼関係であったし、今作では恋愛を失うかわりにそれと同等かそれ以上のものを得る。
ひとが行き詰るときは、世界対自分をスタティックなものとして捉え、自分が変わるか世界を変えるしかないとなって行き詰るのだが、そうではない場合があるということ。解決というか、別のフェーズというか、そこまでいかなくてもその糸口が降ってくる場合があるということ。
もちろん必ず「それ」が訪れるわけではない。必ずといったら宗教になってしまう。また、方程式があるわけでもない。それを提示できるならたんに詐欺だ。
で、当然こう言うからにはまったくそういう契機が生じないことだってありうるわけ、ではある。だから、ただ「それ」が時にありえるということ、だけ覚えておけば、いまはただそれだけでもいいのではないか。そうすれば、そのサインを素通りしないことにつながるかもしれない。いきなり「分人主義」などと気張ることができないひとにも、そう、いままでよりも5%だけでも救いになるかもしれない。しかし5%だけでも影響が与えられるとすればすごい事ではないか。
あともうひとつ、この小説について。これは枝葉に過ぎないのだが、三束さんのついた嘘について、単行本では改稿がなされているらしい。ということは、雑誌の再販があまりないことを考えれば群像の掲載は今後希少なものになるのだが、その改稿のきっかけに関して、川上氏のインタビューを読んで、私も不可解ではあった。というのは、三束さんが結婚していたのであれば、冬子が喫茶店に姿を探しに行くどころか、手紙など絶対に書くとは思えないからである。(どこぞの誰とも分からない女性からのそんな手紙が、ある家庭にとってどれほど迷惑か。)「嘘」が妻がいるということではありえないな、と。
それにあのレストランのシーンが輝くためには、この二人のあいだに恋愛関係に限りなく限りなく近いものが成立していなければならない、と。
で、私もこの嘘について、物語に入り込んでしまっている所があるから考えざるを得ないので考えていたのだが、「とても大事なこと」で「嘘」というのは、「寝たいと思ったこと」なのかな、と。例えば、もしかしたら三束さんに一度か数度の、過ち的な同性愛の経験があったりして、そのせいで離縁され、で、女性に惹かれ恋愛関係にも至れるのにもう一度抱けるという確信がない、とか。そうなると女子高の先生というのにもピタリと当てはまる可能性があって、というのは、女性ばかりの所にいれば見たくないものも見てしまって、とくに若い頃など一時的に女性嫌悪に陥る可能性なしとはしないからだ。
ただそうすると今度は服装に気を配らないというのが矛盾してくる。しかしこれも敢えて、自分のなかの同性愛傾向をシャットアウトするために意図して気を配らないということもひょっとしたらありうるのかな、と。
しかしこの結論もいまひとつしっくり来ないなと思いながらいたのだが、そういうわけでしたか。でも、いろいろ考えさせてくれたぶん、単行本よりこっちの方がいいな。