『良い夜を持っている』円城塔

前作から少し評価しだしたのだが、どんどん良くなっている。というかこんな言い方は失礼で、実際は、読み手のほうの私がやっとこさこの作家の面白さを理解し始めたというのが正しいのだろうけれど。
この作家は「叔父」だとか「友幸友幸」だとか、思考実験の土台とするかのような極端な人物を描いてきたのだが、今回の父はとにかく何でも記憶してしまう超絶的な記憶力の人物といく設定で、こういう能力を持っていればいったいその人物はどうなってしまうんだろうという想像力が今までで一番刺激されるものではなかっただろうか。
何でもかんでも記憶してしまい忘れることが出来ないから昔も昨日もなくなって一人の人物が言うことの言明の矛盾が解決できなくて困るとか、よくよく考えるとしかし、そのひとの同一性すらどう担保しているのか分からず、着ているものも髪型も同じでなければ違う人の言明と受け取ったりするのだろうかとか考えたりして、混乱しながらとりあえず読み進める。
でその超記憶の人物が、記憶が混乱したりしないようにマップを頭のなかに作って、その位置と記憶を関連づけることによって記憶を整理し、混乱しないようにするだとか、読んでいて光景が想像できそうでできない所がなんか面白い。たとえば、決して観念することができないように思われる「無限」というものの観念に少し(ほんの少しだけだが)近づいたような気にもさせられ、あるいは全く想像できないところでも読んでいるうちに、想像できない"数理言語空間"とでもいうべきものが、想像できないながらも「存在」して物事が進んでいくような不思議な気分と変わっていく。「丸い三角形」など観念できないのに、「丸い三角形」として物事が進んでいくかのようで、これこそ言葉の、小説というものの力、不思議さなのかとも思っているそばから、今度は小説内で小説に言及され、そこではごく普通の小説を読み進めるというのが、いかに我々が無意識に思考操作を働かせているかというのが語られる。もちろんこれは「歩く」「走る」「話す」「手を使う」などと一緒で、訓練と習慣の問題でしかないから今更とりたてて驚くことではない。例えば人の動きをするロボットを作るのがいかに困難で、かつ人間が複雑な動きをいかに簡単にこなしてしまっているかということと似たようなことでしかない。がしかし、その小説のアクロバティックさへの言及の仕方の工夫も手伝って、相変わらずくそ生真面目なこだわりだなと思いつつも、今作に限っては面白くないということはない。
またこの「父」にとって最愛の伴侶である「母」の物語への登場の仕方がなんともユーモラスで、それと同時に純愛めいたものを感じさせる。博士の数式がどうのこうのというヒットした本があるが、こう理数系的な直線定規的な人物であればあるほど、その気持ちの単純さゆえに純粋さを強化してしまうところがあるようで、ラストシーンの綺麗さも含めて恋愛小説として読めたりもする。しかし小説としては記憶力との付き合いの思考実験的な部分の分量も多く、とっつき難さはないとはいえないし、私も読み終わった今でもどれだけ正確に理解できたのか不安なところも残り、万人に受けるということは決してあるまい。このあいだの芥川賞候補作より面白いとはまず言えるのだが。