『その日東京駅五時二十五分発』西川美和

リアリズム。過去の回想がけっこうな分量で入るから、厳密には「一日の小説」とは言いがたく、しかしだからこそ面白くも読め、こちらの方が上記作品の分量であったらな、とも思う。終戦間際の日本兵たちを描いたというものでは最近『逸見(ヘミ)小学校』(庄野潤三)というのがあったが、実体験者が書いたあの作品の生々しさと比べるのは酷かもしれないが、それにしても雰囲気を捉えている面はあって、よく書けているなあと思ったし、それ以上に通信兵のことなどよく調べたよなあ、と思う。(ほんとうに日本軍や、日本の役所は、よほどばれては困る戦争犯罪でもあったのかしらないが、大量の資料を焼き捨てたんだよね。)
とくに、モールス信号に個性というものが出たりとか、通信兵のなかでも下手糞な奴がいて皆でそれを受け取りながら笑ったとか、は非常に記憶に残るところ。ただし、主人公と別れる友人の兵隊が列車のまどを信号で叩いたところなんかは記憶に残るシーンとはいえ、少し芝居がかっていて読んでいて恥ずかしかったりもするのだが。同様な意味では列車内のたくましくねだる子供や、火事場泥棒姉妹なんかもやや作り感があるか。
ところで、時期的にみてこの小説、戦後の(それも広島の)廃墟を描いているから、震災後だからこその小説と思われるかもしれないが、もし震災前の普段からあの時代に西川氏が詳しかったならともかくも、この期間内で一から調べて書いたとは思えない内容ではある。
だから全く作者にそんな意図はないのかもしれないが、読むほうとしては、やはり関連つけざるを得ない部分がある。もし作者が己の意図を勘違いして欲しくなければ発表時期をずらすことも可能だったのだし。
そういう意味で言うと、最後のほうのシーンで見られる風景のすがすがしさとか、なんか分からないけど前向き加減な様子みたいなものをどう受け取るべきか。私にはこれは例えば誰かに勇気を与えようとして脚色したとも思えないのだ。これだけの小説を書く人がそんなベタな理由を持つことなどまずないであろうし。
むしろ感じてしまうのは今このようにはなれないだろうなあ、ということ。これは原発事故があってそれが解消されていないからばかりのせいとも思えない。というか原発以上にそれ以前からこの国を覆っていた行き詰まり感は、これほどの震災があってもガラガラポンと解消することはなかった、ということではないか。
そういう意味で、私としては現状言われるような明るい標語の不可能さをかえってより強く認識する結果となった次第。しかしそれは決して悪いことではないはず。