『群魚のすみか』米田夕歌里

評価を普通としたが、これはあくまでこのブログを始めた当初きわめて安易に考えたランクにしたがっているだけで、まったく普通ではない小説である。こんなパターンははじめてといっても良いかもしれない。記憶力に衰えが生じているかもしれないんだけれども。
で、はじめて出会う、などと書くと肯定的に捉えられるかもしれないので念のため最初に断っておくと、「なんじゃこりゃ」という気持ちも少なからず混じっている。
ところで典型的な近代小説の多くは読者に主人公へ気持ちを沿わせることで成り立っている。またそれゆえに近代文学が近代的自我を作り出したといったような、卵が先か鶏が、みたいではあるがそんな事も言われたりする。(ついでにいえば文学のそういった構造への批判を積極的に含むのが現代文学なのだろう。)
また、卵が先か鶏が、と書いたが、読者はもし自分がこの人物であったら感じたであろう感情、取ったであろう行動が、予想内でそのまま描写されてもつまらなく感じたりするのではないか。そこには結構な振幅というか許容幅があり、その真ん中ばかり行くのではなく、振幅の可能域ギリギリを行くというか、文章や展開の説得力で可能域の幅を広げてしまうような小説の方が刺激的で、けっか面白かったりするように思える。(その幅の広げによって近代的自我は成立していった、と。)
前置きが長くなったが、この小説の女主人公は、我々が寄り添える範囲からは丸きり外れている。
何しろ、最初いかにもいわゆる「非コミュ」な感じで登場しながら、意中の人物からは自宅に誘われキスまでされ、付き合ってる女性とも喧嘩別れしてくれるし、はじめたバイトでもそこそこ成功しちゃうのだ。しかもその職種はたんにレジ打ちとか商品仕分けではなく初心者にそこそこハードル高い試食販売だったりする。
ありえねー、のだ。そしてこういう展開自体のありえなさに加え、会話のひとつひとつが妙に馴れ馴れしく、なんだコイツはという思いを抱かずに読み続けることができない。考え方としては、こういう馴れ馴れしいというか図々しいというか、ときにちょっと偉そうな会話をしちゃうからこそ、「非コミュ」らしさなのかもしれないが、描写において相当の内省を欠いていて、この見方をとることも難しい。
読みながら私は、こりゃ出来の悪い少女漫画だな、としか思えなかった。加えてこの作者の前作にも感じたことだが、恋愛を書けないひとなんじゃないか、とまで失礼ながら思ったものだ。主人公に読者を寄り添わせようとして見事に失敗している、と。
しかし、ラストがすごいのだ。ハイライトは最後にあって、この主人公の天然ぶりがひとりの人物によって罵倒され、読者は胸が空くような思いすら味わえるくらい。
つまりはこの作品は、読者=主人公というシンパシー関係に対する批判として書かれた実験作なのかもしれないのだ。途中までのこりゃ失敗作というのはすべてあらかじめ意図されているのかもしれず、その可能性を考えて[オモロない]にはできなかった。
が、それにしてもラストで胸が空く云々とは書いたものの、それまでの悶々とした辛さが上回る。