『青空』岡崎祥久

素晴らしいなあ。この作品がなかったらボロボロともいえた群像だが、この作品だけでも買ってよかったと思える。
まず冒頭の一行がいい。「すべての逆境に出口が用意されているわけではない」。マジックにかかったかのように、ここから読み進められる一行だと思う。
それにしても、思わせぶりな陰謀などの作り話に絡めつつ無造作に「勇気」とか言ったりする作家との落差を思うと眩暈がするね。震災と言う出来事のあとでは無理ないかもしれないけど余りにも容易に「勇気を与える」だの何だのその種のコトバを人々が口にする今、こういう言葉こそ待っていましたという思いだ。
話は、事業に失敗したか何かで母親に大きな借金を残してしまった男性主人公の一人称視点で進むのだが、前半がとくに魅力的である。
主人公は新しく就職できた会社の「同僚(先輩社員)」と飲みに行くのだが、わずかなお金、自分が一杯飲む分しか持っていない。それでも誘いに乗るというのが余りない展開だし、その飲み屋で先輩社員が自分よりも一回りも年下であることが判明したりする。で、そこで鬱屈した心理に落ち込むのではなく、飄々と言葉を継いだりするのだ。お前の生きる世界のコード(規則)では恥ずかしいことでも、もはやそんなのは何でもないね、と言っているようで爽快だし、あるいはそんなに強い気持ちなど抱えていないふうにも見える。
つまり鬱屈するのは裏に希望があるからである。希望がまったく描けないくらいの虚無にあれば、かえって飄々とするだろう。
というか、主人公の希望はかなってしまっているとも言えるのが面白い。主人公は40歳を超えているのだが、その歳でオフィスワークの正社員として再就職できることなどそうない中で、主人公はたまたま持っていた趣味のおかげで就職でき、自分でも幸運だったと思う。その幸運の前には、自分が飲み屋でソーセージを年下の先輩社員におごられることなど何でもないのさ、と。
たしかにここでかなえられた希望はあまりに卑近で小さい。主人公が「幸運」と己を言うのだって、一般的な文学的見方から言えば、そこではかえって逆の意味をはらんでいたりもする、ということになるのだろう。
しかし作者の意図がどこにあるにせよ、この小説から希望のいくらかを取り出す私としては、この「幸運」はもういちど180度回って、まさしく幸運じゃないのか、とも思ったりするのだ。
その飲み屋でのシーンのあとに、主人公がどんなアパートに住んで、とかワイシャツはどうローテーションして、とか切り詰めた希望のない暮らしが淡々と記述されたりするのだが、こういう生活でも僥倖と捉えるしかない生活への道にいつはまり込まないとも限らないからだ。そんなときもちろんヒーローを願望したり、社会をガラガラポンして希望は戦争とか馬鹿げたことを言うわけでもなく、そんな性急さを強いる既存のコードからずれること。それを示しているような気がする。男女の性差を超越したネリマなる人物が出てくるのも、そんなコードからのずれを希望として示すものじゃないだろうか。
一杯800円のコーヒー屋にいくエピソードも面白い。
ところで、都会にはそんなコーヒー屋がまだまだ残っているのかもしれないが、たとえ待ち合わせだろうとそんな店を使うことがさっぱりなくなった。ということは昔は何回か行ったことがあるということなのだが、西新宿でそんな値段のコーヒー屋に誘われてしぶしぶいったときには、値段が気になって全く味を楽しめなかったものだ。そういえば90年代前半の頃には平気で1200円も昼飯に使ってたんだよな。1000円以上じゃないと出前しないからって。自炊しだしてから何もかもが高く見えてダメだ。タバコやめればマシなんだろうけど、止める気は全くない。


以下ちょっと気になったエッセイについて。