『道化師の蝶』円城塔

今まで読んだこの作家の作品のなかでは一番楽しめたかもしれない。それでも冒頭から暫くはため息が出てしまうようなスベリ方が続いてどうなることかと思ったものだ。具体的には「乳児向け満漢全席」だとか「高校への坂道で読むに限る」とかのところ。論理的などうこうではなく、センスが問われるこの手のおかしさの追求は止めたほうが良いと思うんだが。
しかしこんな言い方はものすごい無駄だ。この作家は、そういうセンスとか、論理的にどうこうできないものは認めないんじゃないだろうか、とも思うからだ。小説の途中で矛盾した言語も記述することは可能だみたいな議論が顔を出したり、コリアンダーパクチーが同じものを指すのがどうだとか述べられたりすることにも見られるように、テーマの中心となっているのは小説論というより、どちらかといえば言語論的なもののように思われるからだ。あるいは言語哲学的な。
「腕が三本ある人の〜」というのはこういうオチだったのか!とか、語り手をあえて不明確にしておいて「ミスター友幸友幸」と「冗談」を言わせるところなど小説の構造として楽しませる部分はあったのに、前作にも見られたような、料理は同一なのに小説は同一になれないとか、内容にて同一に近いものがあるなら作者は同じと見るとか、そんなふうな問題意識が顔を出して、ややウンザリさせる。小説の多様なありかたについて不満なら書くの止めればとかついつい思う。
ついでにこれを書きながら思い出したのは昔読んだある哲学者の、人間が言語において一致するのは、意見が一致しているのではなく、まさしく言語が一致しているということ=言語活動(生活)の一致なんだ、という言葉を思い出した。この小説読むよりよほど刺激的だった覚えがある。