『馬たちよ、それでも光は無垢で』古川日出男

評価の難しい作品。というのはまず第一にこの作家の東北を舞台にした作品をまったく読んでいないからで、読んでいないと実感できにくい場面がある。たとえば、自分の名前の頭文字とその小説を英題におきかえたものが一致していた、とか驚かれても、はぁ・・・・・・となるばかりだ。
冒頭からのやれ日付が挿入されただのされないだのの、さも難渋したかのような書き方に苦労させられると、せっかく新潮社の連中をアシに使ったんだから、もっと分かりやすくルポにしたら良かったんじゃないか(それなら50枚くらいにおさまったのに)、と思う反面、震災から一ヶ月余り二ヶ月弱のあの時期で、すくなくとも「小説」という体裁にトライしたということを評価すべきなのか。それも迷う。
まあ小説とはいってもところどころ現実が顔を出すし、物語があるわけでもなく、また「小説を書く」ということに関する方針だの覚悟だのに費やされる部分もあり、面白さは殆どない。馬や家畜、戦国武将に関するエピソードで2、3面白いものがあった程度だ。小説の方針に関していえば、たとえば家畜の来歴を追うことで正史に対抗する?といいたいのかよく分からないが、家畜はたんなる道具ではなく、家族でありまたときに崇められるものでもあったのは確かで、その存在にスポットを当てるのはまったく構わない。あまり興味がわかないけれどね。
ところで小説そのものと関係ないが、私は小説家が出版社をアシに使ってあれこれすることを全く否定しない。書かれるものが面白ければそれでいいし、出版社だってそろばんはじきながらその点やっている筈だからだ。しかしこの作品でそうなることに至った顛末を読むと、古川氏はクルマの免許がなく、まずだいいちに経費云々より、福島まで行く運転手が必要だったらしいのだ。せっかく取得した免許も内的な理由で更新しなかったらしいが、クルマの免許がないなんてその時点で福島を捨ててないか、と正直思ったものだ。絶対にムリとは言わないまでも、都内は23区〜武蔵野市までと川崎市南部、横浜市中部を除けば、もはや千葉だろうと埼玉だろうとクルマのない生活は著しく不便だ。埼玉中部ですら駅前の商店街はコンビニを除いて消え、電車に乗るのは学生と年金世代ばかりで昼間は一時間に一本。それなら茨城はさらに不便だろうし、福島なら想像を絶するはずだ。クルマなしで暮らすようなところではない。誰とも接しないのなら別だが、誰とも接しないのならまたそこにいる意味合いも低まる。