『二人の複数』穂田川洋山

中心はある男が「誰か」に憑かれている(ので複数に見えているかもしれない)という妄想のような話なんだが、そこへ至る話の運びやディテールが工夫されていて良い。主人公の同棲相手がいずことも知れずどこかへ出かけるという入りが何かなと思わせ、また主人公があてつけともなく同棲相手が不在時に別の場所へ出かけ、そこでのたんなる方言かそうでないかのような老婆による呼びかけをきっかけに話が進展していく。短い作品のなかでも読ませるこういう構成の見事さとともに、基本の語りがしっかりしているという点も見逃せないだろう。
登場人物の固有名を最初からはっきり記述しつつ、その登場人物の内面にはあまり深く立ち入らないという作風もあまり変わるところがなく、こういうところはまた「人間」がいない、などと言われる危険性はあるだろう。しかし、この距離感もまた人間として扱うということなんじゃないか、と私などは思えたりするのだが。
いぜんに穂田川作品で、モノ(木材など)と人との距離感が等距離的なところがある、と書いた覚えがあるが、決して唯物論的なモノとして敬遠的に人を描いているわけではないのが今回分かった。例えばラスト近くになってややこれまでの作品とは少し異なる他者への態度が記述される。憑かれるということを積極的に捉えようとするのだ。全人的に他人が自分のなかにはいってくるような感覚、というようなことが書いてある。何かもっと先がありそうな所だ。以前の作品がまだ還元だったとすれば一歩進んだような。
一方で主人公の恋人がどこへ行っていたのかが、ラストにいきなり明かされる。じつはここにも「複数」があるのだが、この無骨な驚きの少ない唐突な話の運び方こそがまた、人がなかに入る、受け入れるということにもなっているような気がする。