『ちたちた』野村喜和夫

作者の名前には見覚えがあって、金子光晴がどーのこーのというこの上なく興味のもてない連載を同じ「すばる」でやっていた人ではなかったか。だから全く期待していなかったのだが、これが面白い。「すばる」にもこんな面白いものが載るんだなあ、久しぶりだなあ、と思ったものである。まったく失礼な言い方だが。
話の基本線は、中年男性が、若かりし頃一方的に、それこそ「捨てた」感じで別れた女性に対して今になって悔恨を覚えつつ、彼女が住んでいた土地を訪ねる話。たんにリアリズムで心境小説ぽく書いてしまえば、ありきたりでスカスカになってしまうモノを見事に膨らませたと感嘆する。
どのように膨らませたかというと、擬人化されたスペルマ(精子)が出てくる物語と同時進行的にその主人公が昔の土地を訪ねる物語を進めるのだが、その同時進行が途中から相互に入り乱れて展開したりもする。
と書くと、私のまとめ方の悪さもあって何のこと?やらではあるのだけれど、読んでいるほうも最初のうちはなんのことやらで、そりゃ擬人化されたスペルマ(精子)が出てくるだけあってそれもしかたないのだが、そのわけの分からなさのなかにも、魅力的なエピソード(背景に実際のモノを埋め込むといったへんな美術作品など)があったりして、この人間のような、人間と少し違うような人物たちの話に、まさしくいつのまにか引き込まれていく。
同時進行的にとは書いたが、スペルマのパートの方がさきにあって、そこで上記のように引き込まれていくと、いつのまにか西武新宿線沿線が出てくる。つまり人間(私)のパートで、ここで出てくる若い男女の若かりしがゆえの過ちも読ませるものだった。ここまでではなくても、なぜあんなことをしてしまったのだろうか的ココロの傷は、これは普遍のものがあるんじゃなかろうか。普遍というだけあって、私にも無いわけじゃない。むしろ自分が傷つけているんだから勝手なんだけれど。
ちなみに、この辺の土地に私が親しみを感じているからより面白く感じたことは否定できない。
若かりし頃の過ちといえば、ワープロを手に入れたせいで、つい使いこなしたい思いで小説を書いてしまったことがあるが(パソコンと違って書くこと以外何もできないんだもん)、そういえば、その小説の冒頭は狭山市駅の駅前の描写から始まるのだった。
駅前の西友のところから反対口へと抜ける一方通行を原付で勝手な解釈をして逆走していたことが今も思い出されるし、16号線にイオンが2つ並んでいるような状態になっちまったが、それぞれもともとニチイとカルフールだということも知っている。ニチイというかサティは確か出来た当初は行けば何でも揃うランドマークではあったが何の思い入れもない。しかし、カルフールが撤退したのは残念だ。カルフールのPB商品って、すごい安かったし、日本のメーカーが出さないようなパスタソースとか結構楽しめたんだけどな。まあ日本のメーカーが出さないようなだけあって、たいして旨くはないんだけれどさ。