『お伽草紙』高橋源一郎

高橋源一郎は群像の連載からするとほんとうに子供と暮らしているみたいで、で子供から余程得るところがあるらしくこんなんばっかり書いてないか?
この間の短編は面白いと書いた覚えがあるが、大部分がパパとその子供との問答で構成されるこの小説はもはや退屈の領域。とくに面白く思えた問答のひとつもなかったような。
そりゃあ「自然」を、言葉の自然さを疑うのは文学の重要な役目であって、言葉が自然ではない外部としてある子供のような存在は刺激的なのかもしれないけど、べつにそれは日本語を学んでいる外国人であっても変わらないようなもので。
で、たしかに彼らによって考えさせられることはあるんだろうけれど、そこではあるいみ子供はたんなる媒介物っぽくなってる。オトナが考えるための道具である前に有無をいわせず従わせることの方が子供を人として扱うことじゃないの、と思ってしまう。
本気で子供になりたい戻りたいと考えて接しているなら話は別だが、どんなに自分が言語によって混乱させられていようとそんな考えなど微塵も私には浮かばない。
「子供の方こそ私たちになにか教えてくれる」みたいな事を言い出すともうその人は考える人としては終わりかなとか思ったりする。しかしそういうありがちな考えに抗して、いや別に本人は抗しているつもりはないだろうけれど、こんな事やってるのは高橋源一郎くらいかと思えば、少し読んでみようかという気持ちも残る。