『水際の声』谷崎由依

あまり良いこと書いてなかった作家なので、気に入るところあればいいなあと思いつつ、こりゃダメと思ったら途中で潔く止めようとも頭におきつつ漫然と読みはじめたら、深夜にかかってくる見知らぬ人の悩みを電話で受け止めるという職業に従ずるひとの話。
お、いよいよ夢幻なかんじでなくなんか腰の据わった話か、とか、その仕事でいろんな出来事が生じたりするのか、と期待したのだがしかし・・・・・・。いぜん見られた「そうなることは分かっていた」的記述も前半は少なかったんだが、後半になると少女が帰ってくるのを「砂男」がなぜか分かっていて、そのなぜかについて主人公がぜんぜん考える気配はなくて、ほかの「なぜか」も殆ど考えることなく受容していく。もうこれはこのひとの美学に近いものがあるな、少しも変わっていなかったわ。こんなふうに理性を捨てれば、近代(的理性)から逃れうるわけでもなかろうに。
しかし、DVだの小児性愛だのを扱っていながらこれほどまでに登場人物の痛みをあまり感じないというのは何なんだろうな。情景描写が優先していてまるでそれらはネタみたいな。文学なんてモラルと関係ないから、小児性愛の加害者を逆光のなかで鮮烈な美しさすらかんじさせるように描いても構わないと思う。自殺を美と描くひともいたくらいだし。けれど自殺を美として描いたひとにとっての「自殺」っていうのは何物にも代えがたいのだろうなあ、と感じさせるものはあったが・・・・・・。小児性愛がネタじゃなかったら少女をあっさり帰したり警察にもいっさいを知らせないという恐ろしく無責任な結末もないんじゃないか、と思う。
それとこういうスタイルの作品だと腹をくくれば、例えば失意のときに哲学者の名前を出してナンパしてくれる男性が現れるみたいな都合のよさ、職がむこうから転がり込んできたりとか、も別にいいやと思うが、これだけは文句いっておきたい。ろくに職も財産もないひとり暮らしの女性が契約できる貸家など、いったいどこにいけばそんな物件があるというのだろう。主人公の保証人になったのは親で余程の信用があるのかな?しかも主人公が住んでいるのは「区」。都会であってど田舎ではない。たんねんに探せばそんな物件もあるのかもしれないが、主人公が前職を失ったタイミングでそんな都合よいものが現れるなんて、美学を優先しすぎで過ぎたるは及ばざるが如しだよ。そして案の定、どこの誰とも分からないホームレスのような、軒先泥棒を平気でやるような男を部屋にかってに引き込んで、あげく刃傷沙汰を起こすんだから。そんな面倒をかぶる家主なんか居ないぜどこにも。(そういえば美学を優先で言えば主人公はパンを拾う(のを認める)くらい金がねえくせに、「喫茶店」いくんだよね。マックやドトールじゃなくて。)
「ああ、そんなもので人を殺すことはできない」のところで少しカクっとなったが、ぜんたいに文章に力はあるんだけれどな。カッコウつけようとする姿勢がまるみえでしかも実際にはカッコウ悪いというのが、私にはどうにも受け入れがたいもののようだ。