『癌だましい』山内令南

うーん・・・・・・。単調というか一本調子の印象はぬぐいがたいな。だからそれほど楽しんで読んだとは言えない。
純文学だから、とくにストーリーなど無いっていう作品は多く、この作品も主人公が徐々にガンに侵されしかも死ぬところまで行かないわけで、その範疇だろう。それでもその他多くに比べ単調という印象を残したのはなぜか。
思いつきで言うのを許してもらうなら、「風景」というか「景色」というか、そういうものの変化が乏しい気がするのだ。もちろん主人公の行動に寄り添うかたちで小説は成り立っていて、その主人公の世界が狭ければ仕方ないだろうし、というか、むしろこの単調さこそ書きたいことの一つの要素だとも言えなくはないだろう。
しかしどうにも、せっかく章立てして書いていて、また数字の多い章からつまり時を遡るという工夫まで加えているわりには、区切りがそれほどはっきりしているとは言いがたく、その効果がよく分からないのだ。こうしてみると、以前おなじ文學界の新人賞をとった松波太郎の作品なんかの場面転換は、出くわしたときはむしろ激しすぎるくらいの印象だったが、むしろ良い判断だったと今になって思ってしまう。
たとえば主人公の今の世界が狭いところへもってあくまで主人公に寄り添いつつ話を進めたいのであれば、回想シーンをいくつかそれなりの量盛り込んだりということも考えられるのだが、こういうのはベタすぎるのだろうか、やり方として。そんなことしたら「食べたいのに戻ってくるという苦しみ」の訴求力が弱まるかもしれないといわれれば、書かない人間である私は黙ってしまうしかないのだが、主人公は、ガンを宣告されても自分も病気になることができたと笑みさえ浮かべてしまうという人物である。そんな人間めったにいるものではなく、凡庸に毛が生えた程度の人間ならともかくこういう人物にはそれなりの背景が欲しいと思ってしまうのだが。
確かに難しいと思うところはある。主人公のこの極端さが却って絶望の深さを想像させ、小説が勢いを得ていることもあると思われるからだ。それでも尚やはり、いまだガンの宣告となれば死の宣告に近いものがあるわけで、主人公の「行き過ぎ」にはやはり根拠を求めざるを得ない。ふだんボクなんていつ死んでも、なんて言って出鱈目な生活をしている人間のほうがむしろ取り乱してしまうのがむしろリアルだと思うからだ。それまで職場の職員と和せず世に絶望して生きてきた主人公であれば、むしろこれをきっかけにとんでもない善人に化してしまったりするほうがワクワクする。
それと、もうひとつ病弱で早死にした家族と、流動食しか食べないのに無駄としか思えないほど長生きしている介護施設の老人との間に横たわる不条理などはもう少しクローズアップしても面白かったかもしれないなあ。これほどまでにありえない主人公なんだから、もっともっと老人とケンカしたりして欲しかった。
またこの場を借りていうと、老人問題にしろ福祉問題にしろ、ガンの宣告や治療に関する事にしろ、われわれが普段知らないことにしているがしっておくべき面白い話が山ほどあるのだが、こういうのはリアリズム小説でやるべきかもしれない。
老人の醜さの一端にこの小説は触れているので悪い評価にする気はしなかった。ボケてくると子供みたいな純真さとともに人間の悪いところもあらわに露出してきたりするんだよねえ。