『バックベルトの付いたコート』ミハイル・シーシキン

思いがけず面白かったし、こんな短い作品で感動すら覚えてしまった。
ここには直接的には、口を噤まされた共産圏の人々の人生を「書く」ことによって取り戻すことが主に書かれている。この作家の母親の一生を読むだけで面白い。だがその後、共産圏の人々に限らない普遍的な「書く理由」が徐々に提示されているように感じ、ラストにかけてしびれるようになりながら読んだ。
長いものではないしこれは直接参照してもらう他ないような作品だが、稚拙に私なりに言うならそれは過去を過去でなくすこと、過去も現在も、そしてもしかしたら未来も、すべて総体として溶け合う瞬間を描き出すこと。過去も現在もなくなれば、死も死ではなくなるのだ。
こんな私でさえ、過去のどういう瞬間かわからないがそういう空気が現在に流れ出す瞬間があったりする。雪解けの道のなかを受験の合格発表を見に行ったときのまぶしくて湿気のある冷たさだろうか、あるいは初夏、原っぱでビールを口にしながら翻訳小説を日がくれるまで読んだその夕暮れみちの匂いか、あるいは・・・・・・。
そんな瞬間が現在に流れ出すとき私は、もう自分は死んでも良いかな、思う。じっさいに闘病している人にしたら甘っちょろい感傷だろうが、実際そう思うのだから仕方ない。そしてそのようにして生を生としないことは、死を死としないことでもあるのだ。