『いこぼれのむし』小山田浩子

期待を裏切らない出来であることもそうだが、何より新人賞から間を置かずこれだけのものを発表できるのが素晴らしい。
群像で会社員小説についての評論が連載されていて、出だしはともかくも最近はそこそこ興味深く読んでいたりするのだが、これも一見典型的な会社員小説のようであるし、広い意味ではそうであることに異論はないだろう。
しかしその評論でも触れていた今現在代表的な会社員小説の書き手にもなっている津村記久子の小説を横において当作品をみると、違う言い方をしたくなってくる。たとえば「会社小説」といったら適当だろうか?
多くの純文学に属する会社員小説はやはり近代文学らしく、サラリーマンであるところのあくまでAについての小説で、比重はAにある。そしてこの小説も主人公の奈良さんについての小説のようではある。しかしどこかテイストが違う。
書き遅れたが、この小説は多人称小説でしかも多くの複数の視点・内面で構成されているのだが、他の人称は一度きり4〜5ページの量が与えられるのに比べ、主人公はそれと交互に何度も自己を語る。またこの主人公奈良さんの家庭での様子や、実家への訪問、会社を辞めたあとの様子も書かれる。と、これだけみると主人公についての小説=会社員小説ということになるのだが、読み終わって残る印象は「会社というもの」であって、比重もここにあるような気がしないでもない。
そのことを示しているのがラストにかけてある。主人公が会社を辞めた後語った印象的な言葉、誰一人悪くないということは確かだ、というセリフ。こういう所、ありがちな小説では会社を辞めれば、会社というのはヘンな所で誰々という嫌な奴がいて、という話になりがちだ。がここでは、会社というものの善悪はともかくも、そこにいる人の事は誰一人責めていない。責めていないどころか、辞めた後の病院で出会った妊娠中の元上司のお腹に触らせてもらって主人公の足取りは軽くなってしまうのだ。
ところで会社というものが、誰一人悪くない人たちで構成されたのであれば、それを簡単に悪いものであるとすることは出来ないと思ってしまうのだがどうだろう。それがこの小説の比重が「会社」にあるように感じる所以であって、主人公中心に描いて、中心に描くということはどちらかといえば善は主人公の側にあるわけで、その主人公が結局辞めるのだから対立者である会社は悪となっていいのだが、作者は、会社というものが悪であるという断定的結論を避けるかのように、主人公に誰も悪くないと言わせ、ラストに元上司との交流をもってkる。会社というものの判断を宙吊りにする。読者に考えさせ、感じさせる。
またもうひとつ、主人公が辞めたあとのスーパーマーケットの描写も印象に残る。同じ場所が全く違ったもののように見える。ここではたんに昼間と夕方で違った表情を見せるということなのだが、観察者に定点があるようで微妙にそうでない描写となっている。「不思議」なのだ。おそらく会社を辞めたわけではなく仕事の合間にたまたま平日昼間にスーパーを訪れたら、「不思議」と思えるような描写にはならなかっただろう。観察者自体が変わっているのだ。不思議というくらいだから魔法が解けるかのように。
しかし思ったのだがこの比喩はまったく適当ではない。魔法が解けるなどというと会社員時代の主人公はどこか異常で、いまは正常ということになってしまう。しかし作者が作中言っているとおり、「どちらが良いということではない」のだ。会社員である奈良さんも主婦である奈良さんも、決定的に違うのだが、それぞれ奈良さんなのだ。
そして小説全体の描写の分量は会社員時代の奈良さんにあって、それが辞めたことによって、よりくっきりと会社員であるということはどういうことかとか、会社とはどんなものであるかが浮かび上がることになっている。辞めることがなかったり、あるいは、奈良さんの辞めた後の描写をさらに続けていたら、まったく違った印象を読者に与えただろう。
長々と書いたが、以上が冒頭で述べた「会社員小説」と単純にカテゴライズしたくない理由である。
そしてこれは作者のデビュー作でも感じたことだが、今一度書いておきたいのは、いや、今一度書いておきたいとか言っておきながら、上手く言い表せるかどうか自信がないが、この作者は、自分が思っている「私」と、他人が見ている「私」との落差に敏感なのではないか。
多人称小説といえば、例えば男女の内面を交互に描いたりするパターンが多くあり、その落差の妙が楽しみだったりするのだが、小山田作品に比べれば、その他多くの作品は甘いというか、登場人物に優しいというか、なのだ。一人の作者がそれぞれ感情移入して書いてしまうと、そういう事にもなるのかもしれないが、読者の感情移入の範囲内で物語りも進む。小山田作品では、主人公が容赦なく他人のなかで、奇怪な表情を見せるのだ。
ここでわれわれの実生活を思うに、他人が自分をどう見ていたかにおいて、自分の許容範囲を超えるような意想外の「自分」に他人の告白のなかで出会い、驚かされるということはないか? いやそんなのは、ブ男であるような私だけなのかもしれない。が、例えば、いつも鏡で見ている自分が自分であることに慣れ、合わせ鏡で見た自分になにか知らない自分を見せられた嫌な感じを抱くことはないか?
思うに近代小説というのは、鏡でみる「本当の自分」に寄り添うものであった。それはそれで一定の役割を果たしてきたし、よって一概に否定もできないし、これからも果たしていくだろう。しかし、本当の自分なんて、他人と鏡のなかで並ばない限り、自分だけしか見るものがいないのに比べ、「嫌な顔した自分」は多くの人が見て、そのなかで生きていくわけである。
だとすれば、その嫌な顔した自分を引き受けることこそ、他者との間での倫理を構築するのではないか。
大げさな話になってしまったが、流れついでに書くと、この小説でムシが出てくることについても敷衍できるかもしれない。ムシの嫌な感じ。
いま、多くの女性は(昨今は、幼少時代を過ぎると男性もそうだが)、ムシをやたらと理解不能なくらい毛嫌いするのに比べ、ネコなどの小動物はやたらと可愛がる。このようなおのずから生じるような行動に倫理もくそもあるまい。倫理はおのずからを制御するものなのだから。そして、そういう世の中であることを踏まえたうえで、猫が登場する小説も数多くあったりするわけだが、それについて例えば、ムシが出てくる小説と比べて考えると、なんかモヤモヤした気持ちになってしまうのである。
否定的な感情が出てきたところで、長くもなってきたので仕切りなおす。
ともかく小説として、まずは読みを楽しめる小説であることは確認しておきたい。何一つ特別なことは起きないのに、複数の人間の視点で語ることによって、その語りひとつひとつがよほど工夫されているせいか、とても楽しく読み進められる。しかも独白の一人分の区切りが一息つくのにちょうど良かったり。また、例えば、会社にいきなり観葉植物が現れるのが、複数の人物の視点のなかでどう受け渡されるかというのもスリリングだったし、最後の新しく来た課長とのあいだでのウツをめぐるやりとりが視点によって全く違う光景として描かれているのも興味深かった。ただ良質なだけでなくきちんと読者の方をむいた良質な作品だという事である。そして、そういう力量というか技術の裏づけが前提としてきちんとあるからこその、上記に書いたような倫理だの会社だのの長々としたことなのだ。