『ゾウガメのソニックライフ』岡田利規

根が貧乏性で守銭奴な私は、冒頭小説があまりにアレだったんで、普通ならスルーする戯曲を読みましたよ。
で、なかなか考えさせられるところがありました。これは私の解釈だがおそらく岡田利規は、日々の生活においてなんらかの直接性を回復したいんじゃないか、と思う。
内容だが、女と男が、旅行をすること、あるいは日常をどう考えるかで対立する。で、女性の側は、ただ私は旅行がしたいんだと主張するのだが、面白いのは、むしろこちらの方が日常的なんだというところ。旅行などしなくても日常において世界を感じ取ることができるじゃないか、という男の方が明らかに無理があり、日常を観念的に構成しなおしている。そりゃそうなんだよね。若い女性が旅行をするということは何も特別なところがないもの。
ここで作者はあきらかにこの女性の側に立つような書き方に最後になっている。日常を大事にしろ、という男性を否定している。しかし、私には、作者が否定しているのは観念的な日常の捉え方であり、より直接的な、身軽な日常はむしろさらに大切にしようとしているように思える。
ここで、ネットの浸透という事を考える。われわれはこのツールが出来て以後とくに、世界的な、俯瞰的な視点で物事を捉えることがうまくなっているように思う。かつては、目の前の一本のボールペンに、原油の採掘からその取引から、第三世界での労働やらの関わりを指摘することのほうが、目から鱗を取り除く、推奨されるやりかただった。で、より俯瞰的にものごとを捉えられるようになった今、それは以前ほどの意義をうしなっているように思う。たとえば格差社会などという不満を述べると、そんなこといっても中国なんかもっと酷いし、日本でモノが安く買えるのは、第三国の安い労働があって我々が格差の上にいるからだよ、という正論がすぐに出てきて説得されてしまう。場合によっては、直接的な感情を観念的な議論が奪い去っているかのようなのだ。(そういえばこの戯曲内にも、パリでの貧しい露天商に言及されている)
先程いった作者が思っている事というのは、いぜん作者が、若者の立場を代弁するような論者と対談していたことからの類推も入っての私の解釈だが、その立場を支持したい所がある。とくに震災以後、共同体についてそれを肯定的に捉える言説が出てきて、共同体がしっかりしているからこそ個が勝手にできるんだ、みたいな言い方もされるが、個が勝手にできるのが共同体のひとつの達成目標だとすれば、それをまたないがしろにするような言説はどこか転倒しているように思うのだ。で、個の身勝手さは、世界への接し方の直接性の回復という事でもあると思う。つまり、世界への接し方において、ネットとかでの観念的なフィルターを通して直接性を失うことで、われわれは何か息苦しさを感じないか?
てな事をうだうだ考えたのだが、しかし、そういうことを参考書籍を提示して、ただテーゼとして言うのって戯曲としてどうなの?、という所と、今僕は眠っているのですが、という俯瞰を提示するところがあまり理解できないんだよね。で、[面白い]にはならなかった、と。