『記憶の暮方』高原英里

基本的には、ある青年が過去の自分の周りに起こった出来事を探求する話。
しかし、これが結構工夫のある作品で、まず主人公が考える詩論からスタートする。それ自体はそれほど難しい内容でなく、近代は自由詩のほうが優勢だが、定型・韻文にはそれがうたとしてあった頃の過去(近代以前)の記憶(集合的な意識)が入っているのではないか、そこでこそ言語の他者性が出てくるのではないか、という論。たしかに現代にいたっても俳句や短歌は廃れておらず、日本語が乗りやすい律というのがありそうだとは言えるが、他者性ということになるとどうなんだろうか。自由な口語にわれわれが慣れているから古文調の言語に他者性を感じるという話になるかもしれないけど、古文調に慣れた時代の人にとってもそのまま他者性だったんだろうか、とか思ったりもするが、まあそれは置いておいて、この小説の大きな特徴は、そこから、地の文にまで時折古文調の語りを混ぜて語るという試みをしている。
で、その分読み辛くはある。文言によっては、意味が取り辛かったりもする。私のような古典の素養に乏しい人にとっては、この試みはあまり成功していないように感じる。
で肝心の話なのだが、過去を探求するきっかけは、主人公が生まれた所にあった都市伝説の成立を探るところからなのだが、途中、その成立に、中世の鎌倉の頃の武将の話であるとか、学生運動の話までが関わってくる。確かに学生運動の顛末を古文調のリズムで語るところなど、それなりの迫力が生まれこの小説の白眉というか、私にとっては読みどころのひとつではあったが、それ以外のところをいうと、都市伝説を探る過程で、学生時代のクラブの話だとか出てきて、その運営がどうなっていたかとかメンバーのそれぞれの現在まで語られたりして、とにかく余計なディテールの量が多いという印象なのだ。主人公がガソリンスタンドをやめた所でも、ガソリンスタンドの業務内容までがやれカード支払いがどうだとか会員となっている客はどうだ、とか語られる。
もっとシェイプすべきではなかったんだろうか。正直読み通すのに、眠気に勝てなかった。おそらく、そのディテールがディテールとして面白ければ、そう長く多く感じることはないのだろうが。
学生運動の話にしても、父親の記憶が語られ、自転車屋の記憶が語られ、謎の老婆の話が語られ、更には、学生運動を題材にした作品を撮ったことで有名な若松監督の作品の内容や、かつてのヨーロッパでの実際の革命運動までが語られるのだが、これが思ったほど面白くない。
この小説のテーマとしては、言語と記憶、あるいは言語による物語化と記憶のされ方、そして実際の記憶(言語化されない記憶)との差異、ということではないか、と私は思うのだが、それからすれば確かに、複数の人間によって学生運動のころが語られるといった必然性も記憶がそれぞれ違うといった事から、でてくるのだろう。が、ほぼ内ゲバの有様のみが語られるそれらはどうにもリアリティに乏しく、さらにいえば、戦国時代の武将と学生運動の闘士を「敗者」として重ねてしまうのは、どうもやりすぎのような。なんか、「共産趣味」なんだよね。つまり、外部から興味本位でながめた学生運動、という感じがしてしまう。でなければ、戦国時代の武将と活動家を重ねるなんて事はできないだろう。なぜというなら、学生運動にというのは、ヒーローの否定、ひとりの英雄による上からの革命の拒否としてこそあったわけだし、凄惨な内ゲバという現象を1とするなら学生運動というのは99くらいは地道な言語による活動としてあったのだろうし。
とくに組織が崩壊してしまいそれを守る必要もないのにたんなる報復として殺人が行われたかのような記述には、ちょっとした反感すら抱かせる。警察の介入をいたずらに招かないためにも、組織の情報が外に漏れることが確実であるかのようなごく特殊な場合以外は、めったに殺人なんてことはしない、そういう一線はたいてい守られてきたものではなかったか?今さら学生運動のことを書くのは、忘れ去られたものを葬ろうとすることにおいて一見誠実のような思うが、誠実にむきあえばこそ、この小説のような扱いは無いのでは、と思う。
一方で、自らの空の色の記憶=言語化されにくい記憶に向かう姿勢は、共感というか誠実さを感じただけにそれをより一層残念に思う。ここには私自身の体験からも感じ入るところがあったので、色々あれこれ不満を述べてきて、また、小説の話の結末が、実はあの出来事を起こしたのは私だったかもしれない、といういかにも純文学にありがちなものだったりもしたが、[オモロない]にはしない。