『ぬるい毒』本谷有希子

田舎やそこにいる家族、あるいは田舎的なものから抜け出せない自分への嫌悪と、いっけん華やかだけどその実しょーもない都会的なものへの嫌悪。それらの相克というのは、話題になった『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』いらいこの作家お馴染みのモチーフ的なもの。と、思っているのは私だけかもしれないが、ともあれ、恐らくほんとうに書きたいことの中心に向かっていこうとするとこういうものがでてきてしまうのだろう。
なんて言いつつも、読んで暫くは小ネタで笑いをとる部分もあったりして、あまり成長がないなあ、と感じかけたことは事実として告白しておきたい。中盤からはギャグ的なものも消え、全部読んでいるわけではないから分からないものの、これまでの本谷作品よりもダークさが増して、読ませるものとなっている。例えば、家に居候した「彼」が主人公の父母とこれからのことで話し合い、紛糾するような場面では、おそらくこれまでの作品であればコメディ的要素もみられた筈だが、父親や母親の醜悪さをただ綿密に描くだけだ。向伊という名前の「彼」にしても、これだけ気味の悪い人物が本谷作品に出てきただろうか、とも思う。(原という元彼みたいな俗物は描かれてきたかもしれないが。)この向伊という人物を作り出したことが、まずこの小説が成功している一番の点で、彼の次の手とそれに対する主人公の反応がまずは読みどころ。向伊をただ悪者としてえがいたりはしていない。それどころか、自ら共犯者となってしまったりもする。向伊の取り巻きの人物達の掴み所の無さもいい。醜悪ながらも、べつの醜悪から逃れるためには、この醜悪を選ばざるを得ない、その選択のなさが悲しい。
でラスト近くになって、やっと主人公もはっきりとこちらの方が毒としては酷いのではないかと思い始めるのだが、この小説で特筆すべきなのは、その毒=都会が「ぬるい」毒として描かれるところ。嫌悪を催すが「ぬるい」毒だけに拒否反応を起こしたり、ただちに死にたくなったりはしない。それどころか、飲み会でさんざん惨めな目にあっておきながら、最後には主人公も慣れてしまう。
しかもラストにおいて、更に一回転してしまうところが目を瞠らせる。そのせっかく慣れた東京からも主人公は離れてしまうのだ。毒などどこにでもあって出口は無いのだ、と最終覚醒のようだが、それはその通りで、都会と田舎は対立でもあるが、補完でもあり、反映関係でもある。
そして最後の一行にいたっては、ただ自分の年齢が語られるだけになってしまう。ひとはほんとうに絶望すると寡黙になるのだな、と思ったりもする。が、もうここでは絶望や毒ということすら意識にあがっていないのかもしれない。人なんて、ただ歳を重ねるだけ。認識というか、覚悟としてはこれは正しいことなのだが、しかし、こんなに希望がなくて良いのだろうか、とそんな読後感だった。