『私のいない高校』青木淳悟

クソ、とうとう私も青木が出し続けた毒が回ってしまったか、と、この評価をするに際して少し悔しさも感じたんだが、仕方ない。未だに真の理由が分かっていないのかもしれないが、なぜか面白いんだから。
気を取り直しつつ少し客観寄りにいうと、こんな小説読んだことねーやという気分を味わいたい、あるいは新しいものならとにかく、という人は、群像の2月号を手に入れるべきだ。そしてこの小説を読もう。ただし以前『新潮』に載った『このあいだ東京でね』という作品のことを知っている人は除く。というのはこの小説は、あの作品と同傾向というか似たようなコンセプトで書かれた作品であって、すでに体験している人はあまり新しさは感じないだろうから。ただし、より推し進めたというか徹底された、という思いもまた充分感じるので、もう青木作品は充分などとも言えない。『このあいだ東京でね』が気に入ったひとは更に気に入る可能性が高い。
読み終えてまず思ったのは、「このあいだ東京でね」というのが何だかよく分からない題名であったのに比べ、今回の「私のいない高校」という題名はなんとも適切だなあ、ということ。より適切にいうなら、『「わたし」のいない高校』とでもするべきであろうか。
つまりは、この小説には、これまであった無数に近い数の文学作品に必ずあったような「わたし」がいないからである。
一方の極として私小説にはもちろん「わたし」がいる。三人称小説にもしかし「わたし」がいるのだ。たんに神的な客観的なところに視点があるだけで、三人称の小説だって読んでいるとき読者は主人公に自分を感じるだろう。いや感じなくても主人公の行動に合理性を感じたり共感するだろう。そういう意味での「わたし」である。近代的自我と言い換えてもいい。で、近代の小説の存在理由といえば、いちに近代的自我を描くことであって、保守的な人がたとえばダメな小説を「ひとが描かれていない」とか言ったりする。この場合の「ひと」とは近代的自我だ。そして近代的自我の大きな特徴、というか近代的自我である所以は、それがワンアンドオンリーであることだ。なぜ近代になって、ワンアンドオンリーが要請されたかは知らない。身分制が崩壊したから代わりのアイデンティティーが必要だったのか、あるいは科学の発展によって人がより「モノ」として把握されるようになったからか、あるいは資本制の進展で個というものが否定され人が部品のように、いやいや、こんな事書いていてもしかたないが、とりあえず近代的自我というものはそういう事になっている。
つまり、この青木の小説に「わたし」がいないということは、近代的自我が描かれていない、という事になる。具体的にいうと、青木のこの作品は登場人物にはきちんと固有名が与えられているのだが、どうもワンアンドオンリーという気がしないのである。「教諭」と「留学生」の小説なのだ。ここで主に描かれているのは、高校生活で生じる無数のエピソード、新学期の席順の決め方だとか部活動のあれこれとか、なのだが、それのいくつかに(あーあるある、これ)と思ってしまう(ときに心のなかで手を叩いてしまうくらいに!)ように、「教諭」や「留学生」についても、ワンアンドオンリー的側面ではなく、担任であればいかにもあるある的にやりそうな事が書かれる。
近代の小説が「部品」や「動物」として人が扱われることに対するカウンターとして生まれたとするなら、この小説はまた、いくらでも入れ替え可能なモノとして人を描きなおしている、と言っても良いかもしれない。
しかしこれがダメではないのだ。そのようなものとして世界を描きなおしてもこれだけの出来事がある事にまず驚く。ある意味これでも充分この小説は評価できる、というくらいあるある的エピソードを集めているのだ。もう作者にお疲れといいたくなるくらい。わたしがお気に入りなのは、体育館の舞台の下に椅子をしまうとき、椅子を縦に並べた上のスペースに椅子を今度は横に並べて最大限入れてしまうところだ。そういえば、そんな事してたなあ。こんなの資料集めだけから書けるとは思えないよ!
そして更にこの小説の評価すべき点をいうなら、これだけ類型的な出来事を集めていながら、そこここにワンアンドオンリー的な出来事が零れ落ちてくるところだ。これが青木的ユーモアを伴って語られるとなんとも言えないおかしさを生じる。たぶん似たようなコンセプトで別の人が書いても、誰もこのようには書けないだろうなあ、と思う。「先生、ナタリーが」という台詞の何がおかしいのかさっぱり分からないが、とにかくおかしいのだ。
ところで、この小説はある意味、親切な小説だなあとも思う。このへんは作者の意図とはきっと関係ないのだが以下に書くと、いくらワンアンドオンリーの自己に目覚めさせられ、たとえば学校では個性を伸ばす教育など施されても、わたし達の大部分は商売になるだけの個など持っていないし、労働ではどうしても個は消される。私生活だって何だかんだいって年をとれば結婚だのという話になりがちだ。いっぽうで、(とくに女子の世界では)少し変わっている事が尊重され、変わっていることが多数派としての資格要件になっているかのような按配だ。変わっている事が「ふつう」ということ、で平凡なありきたりな感覚の人ではだめなのだ。「個性的であれ」というテーゼによる抑圧と、個性そのものが消されてしまうという抑圧と、両方から抑圧がかかっているのが今の世の中である。とはいえないだろうか。
たとえば文学など志している人はサラリーマンなどにはなりたくない、と思うだろう。たいていのサラリーマン仕事は個性を要求されないように見えるし、実際そうだからだ。たとえば多くのサラリーマンは、純文学など読まない。きっとどうでもよい世界なんだろう。というか、近代的自我などもはや邪魔でしかないのだ。しかしそんなサラリーマンの世界でも、このようなコンセプトで小説にしたとき、その出来事の数は驚くほどであるに違いない。そしていくら類型的であろうともこぼれている個の世界もある。当たり前だ、そうでなければ誰もサラリーマンなど続かないだろう。
つまり、保守的な、これまでのような近代的な小説(=人物)を求める人なかにはこの小説の良さがさっぱり分からない人がいるかもしれないが、もしかしたら、自分の世界が広がったかのようにこの小説を読む人もいるのかもしれない、という事。その人にこの作品は、べつにワンアンドオンリーにそんなこだわらなくったって、と親切に語りかけているかも。