『あめりかむら』石田千

この作家の作品を読むのは初めてだが、思わぬ収穫。とくに工夫を凝らしたところのないリアリズム小説なのだが、だからこそ良さが光った。読み終わったとき、なんて「良い」小説なんだろう、と単純にそう言ってしまいたくなった。そしてこの小説は間違いなく跡を残していくだろうとも思ったけれど、今こうして書いていてまだシーンが心に浮かぶ。
この小説は、藤谷作品のようにここもあそこもというように良いシーンがあるわけではないが、ラスト近くの大阪での光景が抜群にいいのだ。
主人公は内心色々抱えた状態で大阪を訪れ、ホテルで容態が急変し、急変といっても自分であるくことはなんとかできるのだが、とりあえず大阪の街へ出て開いている居酒屋へ飛び込む。そこでなんとか落ち着いたところで居酒屋の人に「仕事」を紹介される。その「仕事」というのは大人のおもちゃ屋での作業のことなのだが、若い女性にそんな仕事を紹介するという屈託のなさが、前半〜中盤までのつねに内心を探り合うような「近いのに遠い」関係とまさしく対照的で、その日あったばかりなのに「遠いのに近い」。その大人のおもちゃ屋での傑作なやりとりを経て、結果として主人公の女性は救われる。
感情的な訴えも、理詰めの説得もそこにはない。ただ、ひと、がいるだけ。
むろんこんな僥倖は簡単に訪れるものではないだろう。主人公が容態の急変により、日常を、自己を失っていたからこそ、そこで遭遇したからこそ、であろうと思う。あるひとが行き詰ったとして、じゃあ街へ出て知らない人に話しかければ、何か変化が訪れるわけでもない。
だから主人公がラスト近くに、自分のこの体験を自殺した知り合いも持つことができれば良かったのにと思うのだが、生前になにかそういう機会があったとしても上手く運ぶとは思えない。しかし、そう思うことはとてもよく分かるし、たとえば読者は、最早わざわざ街に出なくても良いのだ。この小説によって体験してしまっているのだから。
ところで非リアリズムは違う現実を描きそれにリアリティを与え、読む者の現実を異化する。同様に、優れたリアリズム小説も、現実の描き方によっては、ただの現実を幾ばくかでも希望のある現実へと異化するんだなあ、とそんな事も考えた。そしてこの小説では、媒介として自然の光景というありがちなものではなく、人工のモノ、大人のおもちゃやビニールの暖簾だったりするのが面白い。題名としてあめりかむらが選ばれたのもよく分かる。まさしく「アメリカ」がなぜか「村」なんだから不自然というか作られ感一杯なのだから。しかしこれもまた都市に暮らすものの「自然」なんだろうと思う。ここにアメリカ村を持ってきたのは、上手いなあと思うが、主人公を通じた作者の思いを真摯に感じる分、あざとさは微塵も感じない。
さっき、ただひとがいるだけ、と勢いに任せて書いてしまったが、「アメリカ」が「村」となってる滑稽さ・おかしさや、中小企業の社長が真剣に従業員のことを考えて大人のおもちゃの品定めをするという滑稽さ・おかしさが、主人公の救いとなっている事も見逃せないだろう。生真面目な哲学的考察がすぐに救いとなることなどあまり想像つかないが、おかしさや笑いが救いとなることについては私もまた経験的にとてもよく分かるのだ。