『自然に、とてもスムーズに』綿矢りさ

さてこの小説について何を言えば良いのやら。前作では今作と同じく読みやすくも、「いち」とか「に」とかいって、それなりに小説的な遊びというか意匠があったが、今作はそれもなくなった。なんかすごく普通になったように見えてしまう。
この事がメタに題名が表現しようとしたことなのかもしれない。へんに工夫せず、自然に、とてもスムーズに小説なんて書けばいいじゃん、みたいな。
むろん全く工夫がないわけでない。若い男女の恋愛を描いているのだが、女性と男性の双方の一人称から物語は語られる。この事自体はありふれているといっても良いくらいのものだが、女性が語るときは「ですます」で、男性は「だ」を使う。それもまたたいした工夫でないし、誰かしらすでにやっているだろうが、面白いのは普通こういうふうに双方の側から恋愛を描くとき、分量を同じにしがちだが、圧倒的に女性の側から語られる量がこの小説では多くなっていることだ。
なるほど。確かにね。男女が愛し合うとき、双方が同じくらいの思いで恋愛にコミットしているという事こそ、「不自然」でアダムとイブ的幻想だ。あまりに小説的過ぎるともいえるかもしれない。
この小説では男性のほうは、女性を気にすると同時に仕事のことも考え、氷河期に生まれた自分がそれでもまあまあの位置にいることを納得しようとしたりする。女性は一時的にしろ仕事をやめたが為に、男と自分の関係のことに頭が支配されがちだ。これじゃ語られる分量にも違いが出るだろう。もっと野暮に現実をいえば、実際のサラリーマンなんてのは、たいてい読むのはマンガかスポーツ紙、あるいは日経。恋愛小説なんて読む奴はいない。分量には差はもともとあるのだ。それを「自然に」小説に反映させれば、こういうバランスにもなるだろう。もっとも昨今は女性だって、携帯ゲームの毎日なのかもしれないが。
そしてラストになって、話の内容としても、そのバランスの傾きこそ恋愛に向かわせる部分があるのではないか、と主人公は内省したりする。柄谷的にいえば、コミュニケーションというものは本来的に非対称なのだ、ということ。
いかにも俗物な男性女性を題材にしながら、このようなそれなりのテーマでもって一個の小説を書いてしまうのは流石だが、まあしかし、物足りないのは否めない。なんらなかの新しい「ひとのありかた」の一端でも、というのはぜいたくだろうが、いま少し読むものの土台を、少しでも揺さぶるものが欲しい。