『わたしの彼氏』青山七恵

いまだに落胆が消えない。こんなにも面白い連載がこんなにも早く終わるなんて。もう鮎太朗やテンテンには会えないの?
たぶんマンガ雑誌とかだったらありえない事じゃないだろうか。マンガの場合連載中の反響によってストーリーを無理やり引き伸ばしたり、唖然とする終わり方をしたものだ。今は全く知らないが。
もし『群像』がそんなやり方をしていたら、今頃は昼田とハッコウの代わりに『わたしの彼氏』第二部を読むことができたに違いない。まあストーリーを引き伸ばして駄目になった作品も多そうだから、文芸誌のようなやり方の方が正しいのだろうけど。というか勝手に『わたしの彼氏』が圧倒的人気である前提で話し過ぎ?でも、落差大きくね?そう感じてるのは私だけ?
感じているといえば、青山七恵ときいて、どちらかといえば保守的なリアリズム小説を書いて、その描写の的確ぶりで評価されている人、と感じているひとはけっこう居るのではないか。が、その認識は変えた方が良いとおもわれる。と私が書いたところで何の説得力もないのだが、この作品を読めば決定的に変わる。小説というものの可能性について色々試みる冒険的で革新的な人なんだ青山七恵って、というふうに。いまだに世間的には、綿矢りさなんかのほうが文学的に先を走ってると思われてるのかもしれないけどね、違いますよ、と。(まあ正論的にはそれぞれがそれぞれのやり方なんだろうけど。)
この作品中では、登場人物の一人によって小説が書かれるのだが、それについて「すっとんきょうな小説」と表現されているのが、なんとも面白い。というのは、その評価はまさしくメタに立つこの小説自体にもいえて、青山氏が自らの小説の魅力について間接的に書いているんじゃないか、と思えるからだ。
そう、そこの箇所を読んだときは腑に落ちたなあ。この小説の魅力のひとつは、まさに「すっとんきょう」と表現されるのがぴったりな気がする。とくに心情表現の比喩の飛び方が、まさに飛び方としかいいようがなく、ときになんなんだよそれと突っ込みたくなるもの。「できたての決心にぬるい卵を割ってかけられた」とか。けれど、キャラをしっかり確保することで、ぎりぎり回収できるから面白い。このぎりぎりの感覚がじつに楽しめるのです。どこまで高みがあるか分からない空へ読者も一緒に飛ばして、それを風景としてねじ伏せてしまう感じ。
昨今はこういう比喩表現はむしろ慎むべきと語られることが多く、文体には拘らない翻訳可能なプロットこそが大切とかいう人が三島賞作家になったりするのだが、それを逆手にとったかのようだ。特徴ある比喩表現が、キャラ造形を手伝ったりする場合もあるのである。
それにしてもこういう表現がなぜ読者にとっても可能になったかと考えるに、「○○のようだ」と書くとき、表現そのもののマッチ具合、的確さが普通なら問題となるのだが、表現そのものが秀逸である場合は、マッチ具合は後ろに追いやられてしまうという事もあるのかもしれない。またこの小説についてはとくに、そういう観念、想像された切り取られ方が秀逸であるのとともに、小説内で目に見える光景そのものの切り取り方が秀逸であるというのもいえるだろう。簡単にいうと視点がキュートなのですよ。これは青山氏のほかの小説について、どこかで言われてたりするのかもしれないが、その魅力が今頃になって気付いてしまった、いつもながら鈍感な私なのである。
しかしこの鮎太朗のキャラは、なんか東京ガス妻夫木聡のCMとかぶるなあ。妻夫木って、歳とるごとに魅力が薄れていくような感じがするんだけど、あのCMも長いことシリーズ化しているということは人気もありそうで、とすると、ああいう空気とこの小説の空気が、知らずマッチしているのが面白いな。青山七恵の、時代を肌で感じ取る能力が鋭いがゆえなのだ、とすら言いたくなる。
ともあれ、群像編集部、本編担当者さまに感謝。むろん青山七恵本人には言うに及ばず。