『いい女VS.いい女』木下古栗

全くもう。
先だって芥川賞が決定したらしいけど、文春関係者の方々よ今からでも遅くない、この一作を加えて三作同時受賞にすべきである。一作だけでなく二作選ぶのも可というなら、べつに三作選んだって構わないだろう。
え?候補にすらなってないって? そんな馬鹿な。これだけ力のある書き手が、芥川賞どころか候補にも選ばれないというのは一体ぜんたいどういう事なのだ。日本の文学界というものを本当に考えているのかね。
いやもしかしたら、芥川賞の候補になることを作者が拒んでいるのかもしれない。せっかく選考し受賞にいたっても作者が拒否したら格好がつかないのか、候補に挙がるに当たっては事前に作者の内諾みたいなものもあるときく。きっと内諾していないのだ。べつに島田雅彦のように何度も落選しその度作品に難癖をつけられるというみっともなさから逃げている訳ではなく、最初から相手にしていないのだ。媒体も文芸誌に限れば主に『群像』でしか名前を見たことがないが、何かポリシーがあって他誌からの依頼は断っているにちがいない。
とくに出だしから暫く、また中盤にもときおり、いかにも純文学な、前も言ったかもしれないが古井由吉を思わせなくもない、古典に影響受けたかのような読み応えのある長文が続いたりするのだが、描かれる内容は散歩していて生垣から全裸の男を除いて、その陰茎が自分を咎めるがごとくとかそんな調子だから、先達をバカにしているとしか思えない。もっともらしい書き方でなにかしらリアルなものが立ち上げる、そんな文学の型でもってしても、こちとら空虚しかないんだよ、と。(しかし実際は、ここまで書くからにはむしろ先達への敬意を感じたりするのだが。)
まあしかし、細かいスタイルはともかくも内容なんだが、話の持っていきかたからして滅茶苦茶である。というか、話なんてあるのかないのかという事にならざるを得ないのだが、なにせ主人公がいきなり変わったりするし。というか主人公という言い方が通用するのかどうかわからない。ある男の一人称夢想からはじまるのに、いきなり語りが別の中立的な行動の男の視点になり(こいつが一番主人公ぽいのだが)、最後にはそれらの男とは立場が異なっていた男の半生を三人称で語って終わる。三人称の語りが真ん中の中立的行動の男のものかは分からない。いきなり「本題に入ろう」となって三人称俯瞰視点がはじまり、他の二人がどうなったかも尻切れトンボだ。初めて読む人の感想は、こうであろう事を保証する。「なんだこりゃ」
といっても逆に言えば、この辺までは、いつもの、この作家を知ってる人には、といっても知ってる人はこの日本にそれほどいるとは思えないが、『群像』読者には馴染みの、いや『群像』毎月買っていても2作目からは読んでいない人もいるかもしれないが、ある意味いつもどおりの古栗ではある。がしかし、今作では、後半近くになって真摯な現代の社会、とりわけその言語状況についての考察を配置してみせた。これが、読ませる。郵政「民営化」ではなく「野生化」かよ!と爆笑させたあとの記述、そこで語られる危惧には頷かざるを得ない。このへんの記述に感心した人などは、こんな真摯な事書くんなら、途中のゆで卵を尻の穴に入れる話や、Vネック耐久レースの話なんか必要かよ、と思わず言いたくなるだろう。
しかしこのラストの内容あってこそ、それまでがあるのだ。誰もがその平板さに閉塞感を抱えている現在、目に見える危険さで抵抗したって、すぐに分かりやすい物語として処理され忘れられるだけなのだ。一発ギャグだって、その場限りという点で易々受け入れられてしまう。本当に不穏さをもって我々を恐れさせるものは、無意味な冗長さしかもはや残されていないのではないか。
しかも単に無意味ならまだしも、そのへんを追及していそうな他の作家と違って古栗は笑わせてくれる。全裸趣味の男の邪魔をしようとして野山で奮闘するさまや、Vネックをテーマにした展覧会の話などは、文学史に残る面白さだ。『群像』に載っただけで文学史に残るといえるのかどうかは、分からない。