『トロンプルイユの星』米田夕歌里

最初、地震で主人公自らに生じる俯瞰的な特殊な感覚を描く。この感覚が読んでいて落ちてこないというか、どうにも共感を生じないのだが、あとで作者の述べていることを合わせるとそんな事は当初から承知している事らしい。どうも自分は世間の人にはない感覚がある・・・・・・。成る程それはそれで、その事を小説に書くことには確かに意義があるとも思える。だがしかし、例えその人にしかないような感覚であっても、いま少し、読者が寄り添えるようなものにできたのかもしれない。例え、その感覚そのものの描写でなくても、当該人物のその他の別の言動行動、あるいは生活の様相が、幾ばくかの共感をもって感じられるようなものであれば。
で、その後なのだが、なんとも都合の良い男性登場人物が現れ、二人が近づく様子にもうついていけなくなる。二人の初デートの喫茶店での会話の馴れ馴れしさは一体なんなんだろう、という。女性主人公にとって尊敬する先輩ではなかったのか。男性の女々しさも後半にかけ徐々に徐々に気になる。いや女々しさなんて書くと、ポリティカルインコレクトだが、要するに主人公が少しも驚く人にはなっていない都合の良い感性を持っている。他人というのは近づけば近づくほど何がしかに驚くものだと思うのだが。
この女性主人公の、こういう鈍感というか無頓着ぶりは、謎の人物が会社に現れ、その人物がなぜか自分の名前を知っているのにその事を不安に思わず、思うどころか心から忘れたかのようにデートでの服装に悩むという不自然さまで至っている。たとえストーカー犯罪が話題になるような昨今なら尚のこと、しかも主人公は女性だし。しかしそんな昨今でなくても、驚愕し、怖れるような事だと思うのだが。
この鈍感ぶりは、書けていないということではなく、後半で生じる様々な事件にこの人物がいちいち卒倒するがごとく驚いていては話にならないだろうことから、導き出されたのかもしれない。とすれば、人物をストーリに従属させてしまったなあ、ということになって、せっかくの冒頭に述べたような特殊感覚も最後まで読者に届いてこないし、ではストーリーとしてどうなのかというと、例えばラスト、主人公が変化を受け入れたことについて、余りにも読者に下駄を預けすぎという気がしないではない。読んでいた者としては、考えさせられるより、ただ呆気にとられたような読書感で終わる。そして恐らくは数ヶ月もしないうちに、この小説のことを忘れる。
ただ、恋愛でのお互いの深い想いを描いただけのリアリズム小説よりは、謎を配置し、少なくともストーリーとして走りそうな気配が感じられるものがある小説であることは評価しなければならない。こういう点については私の評価は甘い。とくに過去との差異が微小で余り大きくならないうちは、少なからず期待させるゾクゾク感はあったのだ。