『蠼のすえ』佐藤友哉

いやこの題名、虫偏で探そうか群像のHPからコピペしようか迷ったわ。
相変わらず現在の作家という職業の苦境を綴ったエッセイという感じなんだが、笙野頼子の書くものが小説ならこれも小説だろうなあ。
とまあ印象では相変わらずグチ八割という感じなのだが、武田泰淳に関してもきちんと書いてはいて、武田作品への考察から結構重要と思える指摘も導き出している。
「時の流れによる選別基準のひとつに「文体」があるような気がするのは、僕だけでしょうか。」
たしかに、夏目や太宰のほうが、戦後文学の一部よりはずっと我々に「近い」んだよね。戦後文学の「文章」についていけない人は多そうだ。
つまりは、50年後100年後に残ること、と、オンタイムである程度以上に売れることには、ある程度反する部分があるのだろう。と、そんなのは、人によってはすでに当たり前かもしれないけど、同時に両方得るのが奇跡に近いことだとしたら、後者を選ぶ作家も結構いるんじゃないかな。
むろんそれでも良いんだけど、それだけじゃつまらない。というか、それ以外がないと、それすらも細っていく。時代に迎合的に見えるものだって、そうでないものから栄養を得ている筈。
今げんざい文学の多様性は出版社と作家の良心にしか頼っていない。村上春樹が売れたぶんの余裕でその他を出すことができる。それを支えているものの殆どは良心だろう。村上春樹だけを売るほど資本にとって効率良いものはないのだから。
しかし、文学の世界が資本の論理にどんどん負けていくかということに関しては、多少の楽観もしている。人と同じであることは退屈である、というこの神を殺した唯我的な近代的な感性は、そう簡単には無くならないと思うからだ。というか、それこそが近代的な人間の本質的な性質だと思うからだ。一定程度の商売が成り立つ需要はまず間違いなく残る。
「なにかこれまでと違うもの」を生み出す力がなくなったとき、そのときは、いくら需要があろうと、終わるのだろうが。