『きことわ』朝吹真理子

あの作風でこれだけの長さを読むのか、と楽しみより退屈しないで読みきれるかと恐れがさきに立ったが、ほとんどの部分がリアリズムで書かれていた。他の作家が書いたなら大満足とすべきなのかもしれないし実際その水準は高いが、そういう絶対的な視点など持てず、どうしても読む前の期待感との比較で感想が決定されてしまう。
幼い頃の記憶が実際にそうだったのかどうかが30も半ばになると非常に危うくなる、あるいはそれはもっと顕著に共通の体験をしているはずの者同士で食い違う。殆どの人にそういう経験はあると思うが、そういう記憶の不確かさから、我々の今のリアルというものまでが非常に怪しいものとして立ち現れてくる。冒頭夢の記述から始まるときはそんな小説かと思ったが、路地の記憶や雪の記憶などでそういう部分があるものの、登場人物は意外なほどあまりそういう事には拘らない。10年も経てばむしろ目にするものするもの違和の連続なのではないかと思うが、驚くほど自然に登場人物は事物を受け止める。
それを言うなら殆ど背丈が変わらなかったという一方の人物はともかく他方においては、久しぶりに幼かった頃の土地を訪れれば、懐かしさというような綺麗な感慨よりも、建物や路地などのその小ささにまずもって驚愕してしまう筈で、それもあまりない。登場人物がかなり久しぶりに会うのだから、出会えば結構な不自然さでコミュニケーションがスタートするかと思えば、いきなりムカデか何かが出現したというふうにそこも感嘆するくらい上手く回避され、いっけん自然に邂逅するのだ。終いにはその日のうちに自分の恋愛出来事まで話す。
ほとんどの部分がリアリズムと書いたが、そういう意味ではここにあるのは周到に構築された世界であってリアリズムからは遠いのかもしれない。二人の女性が何か物理的な存在ではないものに髪を引っぱられるという読者に分かりやすい非リアリズムな出来事を挿入しているが、それだけでなく全体が。ちなみに読後にむしろ印象に残ったのはこの部分で、こういう所を印象的に書けるというのはさすがの力量ではある。
そう思えば、二人の女性の自我がどことなく希薄で、とくに貴子のほうなどは人物としてあまり読者に迫ってこない。これは欠点というより、そういう小説なのだろう。
片方の名前が永遠子であるがごとく、作者は連続性が感じられる世界を構築してみせた。過去を自然と迎えられるという構築は、しかし葉山という土地だからこそでもある。典型的にはいわゆるシャッター通りという状況の出現が一方にはあって、いやむしろ一方というよりこの国では大抵の「場所」が程度の差こそあれそうなってしまって、我々の多くは幼い頃の世界は無残に奪われ、自身は激しく分断されている。この小説に入り込むにはだから、困難を感じてもおかしくない。しかし困難は感じない。それどころか、「天象の一瞬一刻がくりかえされることなくくりかえされる」という言葉に感動を覚えたりしている。文学というものの力なのだろう。時代の気分に見事に抗ったというところだろうか。
ところで、地物の魚が地物ではなく適当に買ったものだったというエピソードが一番面白かった。どんなに故郷が無残であろうと、こういう心地よい騙され方はどこかに残されていて、我々をつながりへと戻してくれるだろう。それを信じたい。


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