『彼女のカロート』荻世いをら

決して面白くはないがしかし、あまり悪く書きたくない、そんな感じ。
この小説もまた上記の小説に同じくわれわれは主人公に近寄りがたい。がしかし、それは意図して行われている。この違いはとても大きく、そしてこの小説を純文学たらしめているものだ。
とにかく一筋縄ではいかないものを書こうという意思を感じる。比喩や言い回しにおいてなるべく定型を迂回しようという。だからすんなりスラスラ読めるはずも無く、?、?、という感じで、つっかえつっかえ不可解な思いをしつつ読み進めることになり、挙句、ときには、いや、しばしば、なんど繰り返し読んでも主人公や他の人物が感じたり行動することに自らに落ちてくるものが得られず、納得されずに先に進まざるを得なかったりする。
ここに意図的なものが感じられなかったら、放り出してしまうかもしれない。というのは、試みの意思は感じるものの、惜しむらくは、全く面白さに繋がっていないからだ。ときにはただたんに不適切ではない比喩を用いてるだけに感じてしまう事もある。東京に雪が降るのは珍しくないし、パンフレットは乾燥昆布のようにはなっても乾燥わかめのようにはならない。
また、例えばラーメンと火傷のエピソードや、スランプについての話など、いかにも思わせぶりな「何か」がわれわれの人生を左右しているかのような感覚、また、何かで人生が「足り」ていたりといった言い方、あるいは決して同調してもらう気などない癖にあるいは同調させないがために自らの特異な人生哲学を滔々と語るところなど、登場人物の端々に、昔読んだ村上春樹的なものを感じたのだが、この事は私にとってはつらいだけだった。まあこの程度でハルキといったら世の中ハルキだらけと指摘されるかもしれないが、ラストの非リアリズムな終わり方も含めて、私がこう感じることは今まであまり無かった。
むろん昔の村上春樹なんてのは、殆どアメリカのミニマリズムの翻訳でしかないのだから、この作者が全く影響を受けていない、読んでもいないという事は大いにありうる。