『ライナスの毛布』堂垣園江

『すばる』らしいっちゃ、らしいんだけども、純文学作品なのこれ?という作品。
主人公の悩みとやらも独我的というかひとりよがりというか、ときにナルシスティックな匂いすら漂い、殆ど読み手に近づいてこない。だいいち今のこんな世の中で商売に失敗しておきながら借金に追われることなく、ただちに次の職を得て、しかもその職が漁協の職員なんて半ば公的な職業だったりするような人物にたいしてだな、というところを本当は一番声を大にして言いたいのだが、まあそういうラッキーなケースもあるだろうし、全ての小説が、生活の苦しさを背景に感じさせなくたってそりゃいい。というか、生活の苦しさなんてものを感じていない人が、メディアの言説に汚染されたかのごとくそんなことを言ってみたり、あるいはまるでリサーチしたかのような身の入らない書き方をするよりはまだマシではある。
素人に運び屋をやらせるのにオイオイ積荷の中身まで教えたり、妻や家族にまで自らの存在を記憶させるような行動をするなど、わざわざ発覚しやすいような、またアシが付きやすい事しているのだが、殆どありえそうもなく、こういう所なんぞは、むしろエンタ系の小説の方がリアリティがあるんじゃないの、と思う。よく知らないけど。まあ、美男子の青年が漁港にハーレーで乗りつけ死体の捜索をロハで依頼するなんて、この燃料代も馬鹿にならない時勢によくも厚かましい、というのも含めて、総じてテレビドラマならありうる話なのかな。いくら過去に引きずるものがあるからといって、初対面から時をたたずにこんな横柄な会話を繰り出すような人間なんていないだろう。
そもそも肝心なところ、主人公が過去に救うべき人間を救わなかったことをずっと引きずっているのだが、別に放って逃げ出したわけではなく、ただ何も出来なかっただけなのだ。そりゃ何か出来たはずと後悔はするだろうが、かといって、逃げることと何も出来なかったこととの違いは大きいだろう。主人公は特異にもそれらを一緒くたに考えるのだが、そんな特異な"一緒くた"人間がもう一人でてきて主人公を脅すあたりでそりゃないよ、と思う。主人公が一緒くたに考えてるところを、そうじゃないよ、ああいうときに何かとっさに出来る奴なんてそうそういないよ元気だしなよ、ともう一人が諭すならまだ話についていける。