『後悔さきにたたず』野水陽介

この評価はさすがに「大盤振る舞い」かもしれない、と半分くらい思っているが、それなりの意義ある小説とは思う。それについてはおいおい。
文章のひとつひとつは悪いとは思えない。それどころか、ときにリズミカルな表現なども見られ、退屈もしない。だから主に文章力のせいではないとは思いたいのだが、なかなか読んでいて説得されなかった。噛み砕くのに苦労し、なんとか噛み砕いた後も、こころにすっと落ちてこないのだ。とくに前半。
それでもなんとか小説として成功したのは、サクライという人物にとことん寄り添ったことではないだろうか。徐々に徐々にであるが、説得力は完全に持たないにしても、人物として立った感じはする。ときに、というかしばしば、行動の合理化説明などが長かったり、くどいと思わせたりしたが、その長さが良いほうに転んだのではないか。
と書いて私は考えるのである。そもそも実生活においてだっって、こんな感じではないか、と。ひとりの人間を「分かる」なんて事はないじゃないか、と。むしろ分からないながらも、存在はたしかにあるという感覚。私がサクライに感じるのは、そんな感覚である。主人公が「他者」である小説はなかなかない。たいていの小説は、自己の分身的に感情移入するからである。これをひとつめの、この小説の意義としたい。
そして、ジェネレーションギャップという言葉は安易に使いたくないから世代間の認識の差ばかりのせいにはしたくないが、こんなふうに、おそらくその人自身のなかではサクライのように極めて合理的に自らの行動を律しておきながら、傍からみるとなんとも不可解なふうに自分の人生を縛っているような人が、ときおり、とくに若い人に居たりはしないだろうか。けっこう私は、思い当たる部分があるのだが。そういう意味でこの小説に現代性を感じてしまったのだが、これも意義だろう。今の若い世代の、不可解な部分を、半分不可解まま、しかし残り半分を説明してもらったような感じがあった。感触として若い人のほうが、私らバブル期の人間よりもテキトーさが足りない、いや、正しく悪く言えば、バブル期の世代のほうがテキトーというのは、ずっと感じていて、バイト仲間に平気でペラペラあることないことしゃべるのも、手土産などもまめにするのと同様でテキトーさから生じるのではないという点がなんとも面白い。こういう人物にあまり小説界でお目にかかった事がない。ある生真面目さが、テキトーさを生んでいるという。
自宅住まいでありながら親の影が殆ど無かったり、特筆する異性も登場しなければ、あるいはバイトで最も気が合った人間にあまり触れられていなかったり、というのは不満点といえば不満点であるが、それでもひとりの人間にとことん付き合うことで平板さから逃れているし、サクライという人物の現代性が却って際立つ事となって、これもまた結果として良かったのではないか。
もうひとつ敢えて意義を挙げるとすれば、ときに「コンビニ小説」などと新人小説全般が揶揄されるなかで、敢えてコンビニを中心に徹底して描いたというのも、称えて良いのではないか。ここに少なからず反骨の気配があるのであれば尚更良し。
面白かったエピソードをとくにひとつだけ挙げるならば、カードの呈示を求めるに際してどのような言葉を使えば良いかについてあれこれ書いているところは中々なるほどと、ここは割りと説得され、興味深く読んだ。花火の不良や、店内ぶっ倒れ男などの主要なエピソードよりも、いかにもコンビニ小説的ではないか。
最後のほうで持っている小銭を比べるエピソードも良かった。超然としていた主人公が、一転して、周りと波長があっていたことに感慨を覚えてしまうという、まあ小説的でベタな感も今から思えばなきにしもあらずだけれど、読んでいて感動を覚えなかったといえば完全に嘘になる。