『朝が止まる』淺川継太

文學界の新人賞についてあれだけ書いておきながら、またこの評価だが、私の場合は「大盤振る舞い」の気分は全くない。じつに楽しませてもらったし、作者は「(読者が)無事にすまないように」と書いているのだが、この作品は突き刺さった。記憶にも残るだろう。
読みながら、この不条理に引きずられるように生ずるおかしさに、笑い飯のことを思い出した。文學界の新人賞をコルトレーンに例えておいて、笑い飯かよ、と思うかもしれないが、笑い飯の「奈良県立民俗博物館では〜」や「顔機関車トーマス!」は私にとってはけっこう衝撃的だったのだ。
とくに素晴らしいのが、中盤から後半なのだが、つまりその子が出てきてから。
まだ読んでおらず、これから読むつもりの人は、ここから私の文章を読むのを止めて欲しいのだが、「その子」て何やねん、と。最初いかにも指示代名詞の「その+子」のように書いておきながら、ずるずるといつの間にか固有名詞のように書きやがって、いつそこに突っ込むかと思ったらずーっと最後の最後になるまで知らんぷりだよ。呆れるくらい素晴らし過ぎる。こんなにも大胆なすっとぼけ方まったく初めてだ。
で、ここで起こるのは、思わず吹き出すとか破顔とか、そういう類ではない。作者のボケに合わせそうになりつつ、オイオイという感じなのだ。ノリツッコミと言えばいいんだっけ?「膝の裏がびしょびしょになるほど」・・・あー膝の裏がねえ・・・え、それだけ?膝の裏ってどういうことよ!みたいな。
あと思いついたところでいうと、後方視覚が得られてどちら前か分からなくなったみたいな事を念入りにしかしシレっと書いてるけど、ここにも、そんな事はないだろうというおかしさが滲み出ていたなあ。だって膝の曲がりとかもあるし、人は目をつぶっていたって、前方に歩くことは出来るわけだしねえ。不動産屋で動物が相談しているように見え、動物こそ嗅覚が効くのではないか、と真剣に考えているところも、いやいやいやいや、そんな事ないから、とつい言いたくなる。
で、なぜにこう引きずられてしまうかというと、一見至極真面目に思える考察とか、秀逸な比喩、あるいは表現が随所に見られ、混在しているからなのだ。手元にあるからぱっと開いた所から拾ってみると、「それとも顔というものは、そもそもが拒絶のためにあるのか・・・・・・」とか、「向かいに座っている主婦らしい女は、(略)眠りというものを信じていないとでも言いたげに肩をこわばらせている・・・・・・」とか。
この三点リーダの多用が、いかにも深刻ぶった雰囲気を出していて、それがゆえに良い方向に転んでいるんだろうか。この「・・・・・・」のなかで、たとえば、女性が歩きながら着替えるという事が可能だろうか、とか考えるだに馬鹿らしいことを真剣に悩んだりするのをいかにももっともらしい主人公の動きのように読者に思わせ、ボケがより成立しているのかもしれない。
むろん「・・・・・・」が主ではなく、これを多用しただけでは駄目な事は念のため。言語に対する秀でた感覚と、深くて唸らせるような人間観察が、ここには確かにある。この手の面白系小説(とかいうと怒られそうだが)では、前者のその先鋭な言語感覚を主にたよりに成り立たせるような小説が多く、たとえば「鴨」について書いたところなどはまさしくそんな感じで、ポストモダンをしっかり通過した作品だなと楽しみつつ感心しながら思うのだが、通勤シーンの路上の描写や、電車の乗客の描写なんかでは、すぐれた近代小説の要素も感じるのだ。この作家は、ひょっとしたらどんなものも書けるのではないか、と買いかぶりたくなる。
で、結論をいうと、やはり文章の確かさ、魅力ということになる、というかなってしまうのだろうか。もともと非リアリズム的な小説な苦手な私にあって、しかも女性がつぎつぎ姿を変えたり最後はあんなふうになったりという類の夢の中的な不条理劇を最後まで読ませることのできた原因は。最後まで読ませるには何よりも説得力が重要なのだから。
それを考えると、小説は文章ではない、みたいな意見には益々抗したくなってくるのであった。
最後にちょっとだけ告白すると、どちらかというと可笑しさばかり重点で書いてしまったが、ラストにかけ、けっこう感動してしまった事は明かしておきたい。「どんな言葉も、たちまち空疎になっていくのに、むしろそのせいで、」の一文だ。まさしくここ、この小説には言葉だけしかない。それなのに、こんなにも豊穣な世界が現前することにあらためて感動したのだ。