『自由高さH』穂田川洋山

私などがここで激賞してしまうともしかしたら却って作者の方にとっては迷惑かもしれない。このブログに馴染んでいる人でそう思っている人もいるだろうし、自分でも分かっているのだが、この作品を前にしては、困った。良い事しか書けない。
作品としては一年に一作あるか、新人作家としては十年に一度出るか出ないか、そういうレベルのものではないか。という事はこれ一作だけで文學界のこの号は買う価値があるのだが、それを証明するかのように、在庫があれば旧号でも販売するアマゾンをみると売り切れ。(もっとも、例によって表紙に村上春樹の名前のあるせいかもしれないけど。)
細かい批評的なことでなく、感想だけで埋め尽くしたいくらいなので、もう少し書くと、これを音楽に例えるなら、他の小説は宅録や弾き語りみたいなものであって趣向が合えばそれなりに楽しめるものの、この作品は、コルトレーンかあるいはマイルスの全盛期の、これまで知られていない曲のスタジオでのクリアな録音が発見された、みたいな。あるいは奏者が全てコルトレーン並みの演奏力のオーケストラか。ゲームで言うならかたや携帯かDSのミニゲーム。方や汲めども汲みつくせない深度の大作RPG。
期待して買ったRPGを前にして設定をおろそかにせず細かくチェックして進めるがごとく、この作品を数ページ読んだ段階で私は、ゆっくりじっくり少しづつ少しづつ読むことに決めた。だって勿体ないもの。酒のことは良く知らないが、年代もののウイスキーなど、水で割ってごいごい飲んだりしないでしょう。
というわけで、まず文章だ。
小説は文体ではない?要約できない小説は駄目?そんなような事を言った人が確かいたように思うが、あほか。いやいやいや、この小説に背中押されすぎた。あほかとまでは言わないし、ひとつの考えとは思うものの、同時に、かわいそうに、と思ってしまうね。だって、こういう作品の文章をじっくり噛み砕いて、自分のなかに風景を作り出していくこと。読むことじたい、噛み砕いていくことの楽しみ。これを分からないなんて。これこそ小説の存在意義じゃないの、ということを今更ながらこの作品は思い出させてくれた。たとえば、泳ぐことは体を鍛える楽しみかもしれないが、それ以前に泳ぐことじたいの楽しみがあるんだ。
そしてこの作品にはバランスの妙もある。難しいかそうでないか。読みやすいか難儀かの絶妙な中間点にある。アバンギャルドとポップの中間点にいちばん素晴らしい作品があるように。
じっくり読もうと思ったと書いたが、じつはそうしようと思わなくてもこの作品には止まらせる所があったりして、む?当然のように言及されてるけどなんだっけ、と前のページを繰ったりしてはっきりしなくて、でも読み進めるとそういう事か、となったり、ひとつひとつの記述がまさしく有機的に隙無く組み合わされている。読む楽しみを感じさせてくれる、こういうクレバーな仕掛けに出会ったのは初めてのような気がする。クレバーというのは、思わせぶりでそれと見てすぐ分かる構成を取るような、そういう類の「仕掛け」とは違うということ。
というわけで技術的には、とにかく言うことが見当たらない。というかそれ以上プロ以上。誰とは言わないがほのぼの系な若い女性作家の作品を読んで、この程度なら私にも、と作家を目指そうとしている人などはこの作品を読んで撃沈だろう。
ただ、これだけなら非常に優れた自然主義リアリズム近代小説ということになるんだけど、内容でもまた唸らせる。
まず、この作品だって、もうひとつの新人賞と同じように「動き」はない。たいした話はないのだ。そういう意味でも、この作品は、小説は文体ではないとか言う言説に背を向けている。でもそういう作品て、文学に親しみのない人にとっては退屈になりがちなところ、にも関わらず、この世界の開け方、広がりがすごい。こういうものを読まなければ知らなかったような様々な知識に触れさせてくれるような楽しみ。これも小説の、大きな楽しみのひとつだろう。間違いなく。
と、ここまでであれば、繰り返しっぽくなるが、今までにも存在した近代小説作品のバリエーションでしかないのだが、しかし、とんでもなく新しい所がある。
この突っ込みの無さはなんなんだろう、という。「心の闇」とか「奥底」という言葉をあざ笑うかのように、この作品に出てくる人物の屈託の描写は、その手前で留まる。主人公などはやや他の人物より突っ込んではいるが、たとえば元の工場主である老人に、そういう人物であればこれまでさんざん書かれたような紆余曲折のできごと、深くて屈折した内面の描写がない。それが無い、ということでは恐らくない。書けばあるのかもしれない。しかし書かない。主人公と縒りを戻す女性。どうして主人公と再び?そこへ至る思い。それは書けば複雑になるのかもしれないが、書かない。その女性の兄や、工場主の老人の妻も、それぞれが何かを抱えていそうなひとくせふたくせの片鱗はみせながら、しかし突っ込まない書かない。読者は、というか私は、そこにある事は分かっているのだが、しかし触れてくれないもどかしさが残ると同時に、潔さみたいなものも感じる。その一番の例が、長谷川稔、という人物なのだが、なぜ彼が新会社に参加しなかったかをもどかしく思いつつも、ここにこれ以上のものがなくても良いのかな、となってしまう。これは何だ?
なんとなく思ったことだが、これは三人称小説なのだが、これこそ神視点といっても良いのかもしれない。たとえば、われわれが実生活で他者と接するとき、何かが奥底にあろうとも、無いかのように接するように、そういう意味で我々自身が神視点となって生きていることを今一度思わせてくれたが、そういう所から潔さを感じるのだろうか。うまく言語化できないのだけれども、ここに出てくる人物のありようは、まったく私にとって無比の、初めての、新しいもの。
それと同時に、この小説で言及される「物」。木材や、塗り剤、そしてバネといったものの在り方も、少し違う。何かの手段、ではないのだ。手段というのは、少し説明すると、他の小説などではこういうふうに「物」が描かれるとき、たんなる小道具であったり、何かの象徴として、つまりたんなる手段、小説という目的にとっての、に堕している。それがここでは少し異なる。何かそれ自体として屹立しているかのようなのだ。そしてふと思う。この丁寧な描写で描かれる物自体と、人間とが同じ距離感で配置されてはいないか、と。
最後の数行で、背筋からなにかがじわじわと上がってくるかのような感動を覚えてしまったのだが、いまここで無理やりな解釈をするならば、物に対してと、人間に対して。同じような距離感で、神視点として描いてきた両者を、鮮やかに邂逅させるところに、何か重要な倫理的な在り方に触れてしまった思いを覚えたのかもしれない。
最後に下世話なことを書いて興奮気味の文章を締めるが、文藝春秋社にとっては、久々に後ろめたさを感じずに自社作品に芥川賞を取らせるチャンスではないか。