『ふける』藤谷治

妻も仕事もちゃんとある、つまり地位がきちんとある男性が、ある日なんの前触れもなく都内から地方都市へと「ふける」話。
まず言っておきたいのは、これだけの話をここまで膨らませる事ができるのは相当な技術が必要だろうと言うことで、それだけでこの作家に感嘆してしまう。
そして主人公は、温泉宿か売春宿みたいなところで一度でいいから馬鹿らしいくらい徹底して俗っぽい性行為をしてみたい、と考える。これは結構、じつは複雑な願いなのだ。そこが面白い。
つまりそれは一方で、会社や家庭から離れ自分だけの行為をしてみたいという個であろうとする行為である。途中、主人公がこういう体験を同僚達に話して一般化されたくないような事を言うのに、それが出ている。まさしく自分であろうとする個別的な行為。
しかしその最終的な目的に置かれたのは、半ば定型化された通俗的な性行為なのだ。一般的すぎるほど一般的な行為を願うのだ。
私はこの作家の、このような素直でないひねくれた所が大好きなのだが、むしろそれはど真ん中ストレートというくらいに正しく反時代的でもあるのだ。何かといえば個性尊重が言われ個性的なひとが賛美される時代、その一方でたとえば会社は類的人間としてしか人を扱おうとしない、そういう時代への反逆として。
しかしこういう事態は、池田雄一がいぜん文學界で指摘したようにまさしく近代的な出来事であって、われわれは100匹のなかの99匹の方ではなくあくまで1匹という自覚の元に社会と結びつく、そういう世界にいる。
それを踏まえると尚更、主人公が結局何もしないで「猫がおとなしくなるDVD」をただ見ているというラストは感動的に映る。これは勝手な解釈でしかないが、「猫がおとなしくなるDVD」のその特異性=個別に生きることに、また主人公は戻るのだ。通俗的な行為を拒否し、それぞれが際立とうとする近代が出現させたとしか思えないような内容のDVDを見る。主人公がその地点にたどり着いたのは、私が思ってるような近代社会の認識ではなく、小説の中では選択本願念仏集なのだが、私にはその敗退というか覚悟も正しいように思える。簡単に変わるようなものでなければ、とりあえず一度は引き受けなければならない。
ところで、この小説でいちばん面白かったのは、列車の乗り換え判断で到着時刻が大きく違ってしまうことに主人公がジリジリするところで、分かるなあ身に覚えがあるなあ、と思う。と同時にこれもまた、主人公が現代感覚を染み付かせた簡単には変われない人間であることも示している。