『リア家の人々』橋本治

ほぼ一気読み。読んだ感触は直近の2作、『橋』や『巡礼』と全く変わらないと言ってもよいくらい。つまり面白さはまず保証されている。極端なはなし、1ページ読んだだけで、ああこれも傑作だろうな、と思う。
スタイルも変わらず、つまり昭和叙事詩みたいな感じで、あくまで事実描写を中心に、たたみかけるように話が進んでいく。むろん登場人物の心理描写がないわけではないが、それは簡潔であり、また秀逸な時代分析も挟み込まれるが、そこに滞留するまでのことはしない。
前は全く逆のことをかいたかもしれないが、スタイルに注目してよくよく考えて見ると、橋本の最近の作品は近代文学ではありながら、古典文学のテイストがあるのかもしれない。私が全く不案内なので、滅茶苦茶あてずっぽうなのだが、このスタイルは橋本治ならではなのではないか。つまり橋本治はおそらく、中世〜近世までの史記ものや日記文学を読み込んでいる人なわけで、それらの素養が、昭和のある人物、あるいは家族を『○○記』のような形として生み出してしまうのではないか。
これらの作品がもし口承されるようなリズム感をもって書かれていたら、ますますそんな感じもしてきてしまうのだが、しかしリズムという事はあまり考慮されてはいない。あまり細部の文体に拘ったところは見られず、そういう意味では昨今言われる翻訳可能な簡潔さはある。最近新潮では東浩紀蓮実重彦をDISるという事があったんだけど、無理に当てはめれば、橋本作品は、東の立場に近い。私もどちらかといえばこういう作品の方が好きだが、とはいえ、可能性をどちらか一方に絞ってしまうことが一番愚かで避けられるべきで、文体に拘った文学だって当然あって良いだろう。
具体的な内容に少し触れると、今回の作品は前2作と異なり、庶民というよりどちらかというとインテリ層の人を扱っている。主人公は中央官僚という一家を中心とした話。題名から女姉妹にスポットライトを浴びせて読むほうも読んでしまいそうになるが、昭和叙事詩的にいえば、むしろ面白いのは縦線にいる男達の方で、主人公の一人で戦中の人でもある一番年長の一家の主、末娘の恋人、一家に居候する田舎育ちの若者、かれらの、それぞれの世代を代表するかのような行動ぶり、心理が面白い。ここでだいぶ、物語に幅が出ている。なかでも面白いのは、当然、自分に引き寄せて感じることのできる末娘の恋人であり、また、クールな「現代っ子」である居候という事になり、たとえば前者のいかにも当時の若者らしい達者な口先と、それが男女関係になると途端に俗物と化すあたりなど、うわ、あの時代にいかにもいそうな奴だよなあ、と思う。(たとえば当時のフォーク歌手とか説教臭いくせにアイドルと結婚したり男尊女卑っぽい人いるでしょ?)
もちろん、末娘が徐々に自立的なものに目覚めていく様を時代と共に説得力を持たせて書くところが、この小説の中心ではある。時代に関係ないように見えてやはりこの時代ならではの覚醒なんだな、と思わせるものがある。
一つ付け加えると、そういう面白さから一歩引いて興味深かったのは、戦中から戦後へと至るなかでの相当の落差のなかで、中央官僚がどういう目で物事を見たかという部分。この小説で前半にあたるプロローグ的な部分だ。中盤以降の、学生運動など叛乱の時代を描いた部分に関しては当事者でもあった橋本治が面白く書けるのは、あるいみ当たり前なのであって、ここをいくら面白い面白と繰り返すものまるで同義反復のようですらあり気がひける。それに、戦中戦後の中央官僚の心情を描いた小説じたい、あまりポピュラーではないがゆえに新鮮だ。
で、戦争犯罪追及のほとぼりが徐々に冷めだし戦中に力を持っていた人物達が言論誌などを発刊し、手探りで復権を探っていくあたりも面白かったが、あの戦後の落差と落胆のなかで、主人公に意外ともいえる冷静さがあるのが興味深い。文部官僚だからという部分が全くないわけではないだろうが、この国の官僚たちのらしさが、とてもよく出ているのではないか、と思ってしまった。つまり、彼らは中央官僚は戦中から実に冷静な戦争遂行主体だったのではないか、という事なんだが、ここに描かれた感じが実際とどれほどマッチするものなのか。それをまだ自分で完全に理解しているわけではないものの、戦局のいちばん苦しい中でもたとえば海軍省では定時から暫くすると皆電気消して帰っていたという、どこかの対談で読んだ逸話を思い出してみたりもする。