『内なる他者の言葉』永岡杜人

この月の評論4編のなかで、唯一「わりと理解できたかな?」と思えたのがこれ。従って他の評論にはあまり言及しないでおきたいのだが、一言言うなら、古谷さんの評論、長すぎて、しかも読めば読むほど評論対象の柴崎作品が魅力的に思えなくなってくるという不思議な評論だった。
それに比べて永岡氏のこの評論は、磯崎作品について今まで書かれたもののなかで、いちばん彼の作品の面白さ、今日的意味をすっきり伝えているように思った。読んでいて、なるほどそうか、と目から鱗状態。
しかし同時に、圧倒的に正しいだけに、なんか書かれていることが何も特別ではないことのように思えてきて、言い換えれば「つまらない」のだ。むかし、柄谷がウィトゲンシュタインについて、「ウィトゲンシュタインについて私よりも正しい理解はいくらでもあるだろうが、そんなものは単に退屈だ」と書いているのを読んだ覚えがあるが、それと似ているのだろうか。たぶん、評論というのは、正しい読解というより、創造的な、もっというならでっちあげな読解の方が、面白いという意味では面白いのだろう。
そういう意味では、もしかしたら勝手な感想なのかもしれないが、永岡氏は、評論よりも書評とか解説の場の方がジャストなのかもしれない。