『クロスロード』朝比奈あすか

対照的な人生を生きる二人の20代女性の、今とそれまでを丁寧に描いた作品。それぞれを交互に描き、終盤でクロスするのだが、まさしくクロスするだけで、並行に歩く事はない。つまり、出会って何かが発生するような作り物めいたわかりやすい物語など発生しない。
そして分かりやすくはないが、基調としては、片方は弱さから強さへと向かい、片方は強さから弱さへと向かっている部分がある。OL(死語?)の女性は、主張できない人間から、主張へと、主婦の方は、痛みを分からない人間から、痛みの確認へと。
なかなか難しいことにトライしてしまったなあ、というのが真っ先な読後感で、つまりこの主婦は痛みの分からない「悪女」としての「ロード」をスタートしてきているのである。人並みよりやや美人で、意中の人のために別の男性を利用したことまである女性。その一人称に入り込むというのはなかなか難しいと思う。これは以前もここで書いたが、悪人を書くのは難しい。それをやるとしたら橋本治のような俯瞰でやるしかないのかもしれない。共感しづらい人の一人称に寄り添うというのはただでさえ難しいし、文学というのはたいてい、自由民権運動みたいなもので、現実からはじきとばされた敗者の側のアイデンティティのためのものとして成立してきたのだろうから。勝負に負けたけど人間としては負けてないんだ、みたいな。そこで「リアル」な人間が創造される。(前に池田雄一が『文學界』で書いたように、実際には30匹くらいはいるかもしれない人間を、99匹に対する1匹として国民に取り込んできたのが近代の文学なのだろう)
しかし、みんなからちやほやされる美人だって、同調圧力から浮いた存在である事はたしかで、勝者として疎外されてはいるのだ。そこで今までは、多くの場合金や男が補填してしまうから、文学が必要でなかったというのが、一般的な理解なんだろうけど、それは本当にそうなのか。
そこに眼を向けようとしたからこそ、この小説の意義もまたあるのだろう。しかしこの主婦が、どのようにして痛みを感得するに至ったのか、過去に自分が利用した男性に会いに行くことになったのか、のその道程の説得力がどうしても弱く感じた。夫の友人の少なさ?単調な日常?それらがここへ彼女を持ってきたのか。どうしても、というのは、OLの方がよく描かれているからで、身近に比較対象が存在したせいなのかもしれない。ラストで、この主婦が今を受け止めた言葉(小さな杯にまた注がれた)も、実感しづらかった。(これは今の自分をあまり見つめたことがない私のような人間の性格の問題かもしれないが。)
そう。OLの側は良かった。職場での様子の描写などはこの作家の以前の作品でもそうだったが、まさしく今そこにある我々になじみの光景が現出していて安心して読めるものだったのだ。(安心して読めるというのは誉め言葉にはならないのだが。)単純作業をする様子、それに慣れる様子、同期の人間との学生の頃とは違う淡い交わり、リストラへの周りの浮き足立ち・・・。なかでも、口を聞きたくもない上司に入社当時は少し惚れる部分もあったとか、役に立ってない病気がちの社員に悪意を感じてしまうところなど、このOLがただの善人ではないというリアルな描写となっている。認められたいのかな、とか小さいこと(本人にすれば大きい)で悩んでいるし、たかがスケート行く服装をあれこれ考えたりというところでも、等身大の女性らしいリアルを積み上げ、却ってこんな女性は純文学では見ないのかもしれない。
欲をいえば、ここででてくる「悪人」にも、ドライに会社を渡ろうとする直接の上司の事なのだが、この人間にも悪人の面の裏にあるものを想像させて欲しかった部分はあるが。彼の打算や計算も、それなりに生きぬく為の必死さから生まれたものである筈。あ、それと忘れてはいけない。水泳のトレーニングの様子なども、水泳をやったことがなくここまで書けるのだとしたら実に良く描けている。ところで、社会人の今と泳いでいた頃との落差が描写として少しもの足りなくも感じたのだが、この落差に注目するのは私だけ?だって、大学生と社会人の生活の落差って、これ人生において相当なものなんじゃないだろうか。独身から結婚出産にいたる変化などよりずっとこの落差は大きくわれわれを支配し、落胆させ、尻込みさせているようなもののような気もするのだけど。
ところで、この小説の「リアリズム」は、過去を描く部分まで徹底していて、過去は、現在から実際に回想したようなかたちで言及される。なかなか律儀だなと思った。三人称俯瞰小説として過去だけの章を作ってしまえばいいのだろうが、三人称とはいえ、視点を一人称に固定し、過去までもあくまで現在というその位置から今へと続く道(ロード)として捉える。それを律儀に行った結果なのだろうが、結果としてそれがひとつの特徴となっている感があった。他の作家であれば、もっと自然に見えるふうにこなしてしまっている所が少しぎくしゃくしているような。単純にいえば、ひとは日常でこんな詳しい回想はしないということ。しかし否定的に感じるまでのものではなかった。
佐川光晴の小説と同じで、私のなかの保守的な部分は、こういう小説を必要としている。次に書く木下氏も好きなんだが、木下か朝比奈か、ではなく両方なのだ。どちらか一方でなくてはならないなんて事はないと思っている。