『未明の闘争』保坂和志

七年ぶりの小説と目次にあって、期待する人も多いのだろうが、殆ど期待していない人がここに一名。いきなり出だしすぐの二行目から、「私は」の主語が見つからない変な文章に面食らう。
それでも夢の話とはいえ、普通の情景描写が続き、それほど変わった小説でもないのかな、と安心したのもつかの間、猫だの犬だのの話に突入してため息。またこれか。
動物にそりゃ内面はあるだろう。たとえばコアラが環境変わって餓死してしまうようにメンタルな部分はある。犬だって本能と生存への実利だけで生きてるわけではなく無駄に遊んだりする。
が「内面」だの言い出すとたいていは人間の側からのたんなる反映だ。ぬいぐるみに魂がある、みたいなもの。お互いが心地よく生存できたとき、翻ってその状態を人間が犬の内面を理解した、としているにすぎない。えさをがつがつ食ってるとそれは「喜んでる」になって、遊び相手がいなくて何もしていないと「悲しんでる」になる。つまり、コミュニケーションが合致した事実が、理解を仮想しているにすぎない。
分からないからこそコミュニケーションが重要であって、たとえば、軽々しく「内面」なるものを想定し、「私猫の考えてる事はたいてい分かるの〜」などと言い出す人に限って、人との付き合いがうまくなかったりするのだ。そしてイルカ愛護に一所懸命な人は、イルカを殺す人を人とも思わず、歌を聴かせることすら拒んだりする。児童みんなでうさぎをかわいがっても、その児童たちは一方で仲間はずれを作り、仲間はずれは時にうさぎを殺す。