『好去好来歌』温又柔

佳作となっているが、私にはこちらの方が受賞作に相応しいと思えるくらいのものだった。
まず感じたのは、この小説にはどこにも「悪者」がいない、ということ。中華料理屋の若い店員から、ちょっと足りない感じがする恋人、また主人公が一番に対峙する人である母親まで、それぞれがぞれぞれ実存を感じさせる存在となっている。知らず知らず主人公に同化しがちな読者として主人公の母親なんかは悪者的な存在になりかねないが、一番言語に引き裂かれている彼女にもちゃんと居場所をこの作者は用意している。むしろこの母親こそが主たる存在として気になってしまうくらいだ。またこの恋人の男性は、気軽に中国語を試してしまう人だが、無神経さはなく、主人公がどこかへ消えてしまったときなど、やつれていたりもする。
そしてこの小説は台湾と日本との過去の歴史を感じさせる広がりも持つ。祖母の話す日本語が上手いものであるところは無論のこと、他にも、共産党と手を結んだ田中角栄が、台湾でそんなふうに思われてるんだ、というのも面白かった。日本の首相なんて結局アメリカの政策転換に従っただけとしか思えないんだけれども(日本が共産党と手を結んだのは時間的にもニクソンの後)、それ以上のものを台湾の人は感じるらしい。ここにもかつて支配されていたものと支配していたものの感受性の違いがある。角栄がちっぽけでしかない私などは傲慢な旧宗主国の人間なんだなあ、と思う。
まえにNHKのシリーズJAPANか何かで、日本語教育を受けた台湾の人達が、俺たちはいまでも、何か考えようとすると今でも日本語で考えるしかないんだ、と言っていたのを覚えている。彼らにとっては未だに囚われの身であることを実感させられながら生きているわけだから、過酷な話だ。この主人公にとっても考えるのは日本語なのだろうが、日本人にとって自明である程度まで日本語が自明ではない、というのが面白い。それはときに”音”でしかなかったりする。日本語の自明性を疑うという純文学の大きなテーマが、この主人公の生の描写を描くことと直結している。この主人公のように言語に向かえれば、あるいは、言語が自明でなくなれば、とか思ったりもするもするが、それも「パスポートが軽い存在」の傲慢なのだろう。日本語を自明な国語として自己と一致させることが出来る者は、そうでない者からみれば幸せには違いないのだ。我々は逃れられないとは言っても、日本語教育を受けた台湾の老人達の逃れられなさに伴う苦しみの、そのほんの少しさえも無い。
また印象的なシーンをもう少し挙げるなら、主人公の恋人が気軽に中国語をしゃべってしまい、それが中華料理店では店員の必要以上の気軽さを引き出したり、いっぽうでは母親の喜びや主人公の不満を生じさせてしまうところ。店員や、母親のそこでの反応と、その反応に対する恋人の反応が、流れとしてとても説得力がある。
その他小説的な技術として、省略をうまく使っているところも所々にあり(例えば前半の方で中国語の教師が「次の質問」をするがその質問の内容自体は書かれない)、単純さを回避するそういう所は読む行為そのものの楽しさに結びついている。上手さを感じさせる作家だ。