『屋根裏プラハ』田中長徳

このエッセイが新潮に載ることにどういう意味があるのかよく分からないが、是非とも気取った、あるいは気の利いた文章を努めて書かないようにして欲しいものである。連載初回ほど酷くはなくなっているものの、読んでいて気分が害され、せっかくの貴重な体験が薄れて伝わっている。佐藤優を見習えとは言わないが。
それと今回気になったのだが、アートに無駄と思える金を出すのは、べつに文化じゃないだろう。広い意味では文化に違いないが。
柄谷が言うように商品には内在的な価値があるわけではなく取引されて価値があるかのように見えるのだから、アートに金を払うのも商行為の一つであって、客は文化的なものにそれなりの価値を認めているのだ。あるいはそれが自分は文化を分かっているのだという気分に対する対価だとしても。
それにそういう言い方をすれば、無駄な金など人々が持って居ないところには文化が無いみたいじゃないか。むろんそんな事はなく、単純労働しかない土地であっても、人々は集って踊ったり草サッカーに興じたりしたりする。そういう行為はカロリーを消費して無駄じゃないかと思えるけど、こういう無駄こそ文化だと言うべきではないのか。